南階段の踊り場は私の特等席だ。3階と立ち入り禁止の屋上の間のそこへわざわざやってくる人なんて誰もいないし、近くの教室も会議室だとか資料室だとか滅多に使われない部屋ばかりなので人通りも少ない。つまり誰かに見つかることなんて有り得ないわけで、私は一人で思う存分ブルーな気持ちに浸れるというわけである。

たとえば女の子の日でおなかが痛くてわけもなく気分も沈みがちだとか、部活の上下関係がこじれてしまって上手くいっていないとか、今朝家を出る時にお母さんと喧嘩したとか、そういうしょうもないことがどんどん重なって、自分でもどうしたらいいかわからないくらい泣きたくなってしまった。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったのが5分前、私は動くことも出来ずにその音をぼーっと聞き流して、5限の数学を堂々とサボることに決めた。同じクラスの忍足が先生に適当に言い訳しておいてくれるだろう。購買で買ったまま一口も手をつけていないサンドイッチのラベルを手持無沙汰に眺めながらそう思った。

と、ぱたぱたとやる気なさげな足音が階下から聞こえてきて、反射的に息をひそめる。誰かほかの生徒、だろうか。いや生徒だったらまだいい。先生だっから、先生に見つかったらどうしよう。どうしようったってどうしようもないんだけど、それでもきょろきょろとあたりを見回して隠れ場所なんかを探してしまう。ぱた、ぱた。足音が近づいてくる。わけのわからない緊張感が背中を駆け上ってきて、ぎゅうっと身を固くした。どうか3階で止まって角を曲がってどっかへ行ってくれますように…!そんな願いもむなしく足音は明らかに私の方へとやって来ていて、もう腹をくくるしか、と息を飲んだ。のに。


「あ、ちゃん」
「ジロー……!」
「え、なにちゃん、どうしたの?どっか痛い?」


思わず半泣きになった私を見てジローが慌て出したので、「あんたのせいだよ…」と告げる。本当に心臓に悪い、寿命が縮むかと思ったというのはこういう時に使うんだな、なんて体感してしまった。未だどくどくうるさい心臓の音をやりすごしながらジローを見れば、「うえっ、俺のせい!?」なんて騒いでいる。珍しくはっきりと覚醒していて、眠そうな様子はない。なんでもいいけど頼むから静かにしてくれないだろうか。忘れていたおなかの痛さがじわじわと蘇ってきて、ポケットに入れていたホッカイロを腹部に押し当てながらしいっというジェスチャーをする。


「ちょっと静かにして、誰かにバレたらどうするの」
「あっメンゴメンゴ」
「…ジローもサボり?」
「そー。どっかで寝ようと思ってたらちゃんがいたの」
「そうなんだ」


俺お邪魔?なんて顔を覗き込んでそう言われたので、一瞬返答に困る。邪魔というほど邪魔でもないんだけど、一人で沈んだ気持ちをなんとかしてしまいたかったのも事実だ。一人でぼんやりしていた所でなんとか処理できるわけでもないだろうけれど、ジローと一緒にいてうっかり泣いたり弱音を吐いたりしてしまったら困る。それくらい今日の私は弱っているのだ。どうやらジローも私の纏う空気で何となくソレを察したらしい。こういう時に妙に鋭いからジローは怖いのだ。


ちゃんのクラス、今何やってんの?」
「…数学」
「うわ!めんどくせー!俺んとこね、多分英語!」
「多分?」
「うん、多分」


何も言わないうちにジローがするりと話を変えたので、何を言っても居座る気なんだろうと理解する。べつに困るわけじゃないので私も「いてもいいよ」とか「ごめん、一人にして」とかいう答えを返さない。私の隣に腰をおろしてニコニコと話を続けるジローを横目で眺めながら、紙パックのいちごオレをずずっとすすった。甘ったるい人工的ないちご味が口に広がってゆく。


「昼ごはん食べてないの?」
「うん」
「食べないの?」
「うん」
「栄養取らねぇと出来るもんも出来ねえだろうが!飯食って来い!」
「………は?」
「跡部のマネだC」
「なんでまた。似てないし」
「えー!…俺ね、食うより寝る方を優先しちゃうから昼ごはん抜きとかよくやるんだけど、そしたら跡部にこうやって怒られちった」
「さすが跡部」


だからちゃんもごはん食べなきゃ跡部に怒られちゃうC!

毒気のない顔でジローがそういうので、ふっと笑みがこぼれた。ジローは満足そうにうんうん頷いていてなにかの小動物みたいだ。本当はごはんを食べたい気持ちではなかったのだけれど「うん、がんばる、食べる食べる」なんてつい言ってしまう。5限の時間を全部使ってゆっくり食べたら大丈夫だろうか、たしかに何かを食べなくちゃ薬も飲めないし。
ふいにジローがこちらへ手を伸ばしてポンポンと頭を撫でるので、その掌のあたたかさにおなかの痛みが引いてゆくみたいな錯覚すら覚えた。セーターの袖口はだらしなく伸びていて、指先だけがちらちらと見える。


「よしよし、ちゃんいい子いい子」


本気でそう思っているような口ぶりでそう言うので、おかしくってますます笑みが漏れた。そうして、いつのまにかジローが私の気持ちをどんどん前向きな方へくるりと方向転換していることに気がつく。泣きたかった気持ちも今だけはどこかへ消えてしまった。ジローのもつ柔らかな優しさがゆっくりと私の中に咲いてゆく。


「あ!」
「え?」
「俺さっき、クラスの子にポッキー貰ったんだ」
「わ、よかったねえ」
「だからちゃんと半分こ」
「え?」


ごそごそとブレザーのポケットを漁って角が潰れてしまったポッキーの箱を取り出して、チョコレートでコーティングされたそれが4本入った袋をこちらへ差し出す。ふわふわで白と黒のチョコレートが綺麗に折り重なったポッキーはたしか、ジローの大好物だったはずで。いつもなら一人で嬉しそうに頬張るくせに、「いいの?」と遠慮がちに聞けば何のためらいもなく「いーからいーから!」なんて言う。半ば押し付けられるようにしてもらったムースのポッキーを見つめていたら、びっくりするくらいやわらかい声がすぐ隣から落ちて来た。


ちゃんがはやく元気になりますよーに」


淡い色の甘い音でそんなことを言われたら、今度は違う意味で泣きそうになってしまう。身体の真ん中まですっと沁み込むみたいな音がして、いつの間にか私の中を占拠していた濃紺のブルーはすっかり浄化されていた。




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