「…まだ?」


不機嫌そうな声がすぐ後ろから聞こえてきて、まるで子供みたいだなと笑った。そのへんの大人よりずっと大きな体をしているくせに。

クッションかぬいぐるみでも抱えるみたいに後ろから私を抱き込んで、つまらなそうに私のつま先をずっと眺めている。さっきまでは私のことなんて知らんぷりをして雑誌を読みあさっていたはずなのに、どうやら退屈になったらしい。暇つぶしにとネイルを塗り始めた私をせかしたり、ちょっかいを出してみたり。最終的には後ろから抱きつくことに落ち着いたらしく、肩越しに私の作業をまじまじと眺めはじめた。けれど、なかなか乾かないピンクや赤のマニキュアに痺れを切らしたらしい。数分に一度は「まだ?」を繰り返している。


「もうちょっと」
「ちょっとてどんくらいね」
「お得意の絶対予告とやらで当ててみなさい」
「…あと7分ばい」
「じゃあ7分待ってよ」


「7分…長かねえ」と退屈そうに彼がそう言って欠伸を噛み殺す。さっきまでもっと長時間にわたって私を放置していたくせによく言うよ、なんて思いながら、そのマイペースさがおかしくて小さく笑う。殺風景なちいの部屋には私が持ち込んだ観葉植物やCDやマグカップで溢れている。色とりどりのマニキュアもそのうちの一つだ。赤やピンク、ぎっしりとラメのつまった深い青、つるんとした色の黄緑、透明なトップコート。それらはまるで玩具みたいな、外国のお菓子みたいな色合いで私のつま先を泳いだ。独特のツンとした匂いがして、それに慣れない彼は後ろで少し顔を顰める。換気のためにと小さく開けた窓から吹き込む温い風が、彼のふわふわの髪をはらりと揺らした。


「雑誌はもういーの?」
「読み終わったけん、よか」
「そっか」
「暇たい」
「そだね」
「…あと4分、ばいた」
「うん……あ」
「あ?」
「待ってる間、ちいにも塗ってあげようか」


あんまりにも拗ねた様子がちょっとかわいらしくて、こぼれそうになる笑い声を奥歯で噛んでこらえる。そうして冗談混じりにそう言ったのに、予想外にも耳の後ろから降ってきた返事は至極真面目な音をしていた。


「そんじゃその赤かやつ、塗ってくれんね」
「…えっ」
「え?」
「ほんとに?」
が言ったとやろ、塗ってくれるち」
「そうだけど」
「ここ、左手の薬指に塗ったらお揃いやけん」
「うん?」
「運命の赤い糸、ち言いよるやろ」


彼がそんなメルヘンチックなことを言うとは思わなくて、予想外の返答に驚いて思わず後ろを振り返った。何とも思っていないような様子で「ね、」と言うので、ピンク色の刷毛を持った右手がぴたりと止まる。小指に中途半端に乗ったピンクのネイルはムラになってしまい、歪なそれは不満げに私を見上げているように思えた。ああ、塗り直さなければ。そんなことを頭のすみっこで思いながら、もう一度彼の発言を脳内でリピートする。運命の糸が、赤い糸が、何だって?左手の薬指に乗せた生乾きの赤が、どくんと脈を打った気がした。


「あかいいと…」
「そうばい」
「……ちい、さあ」
「ん?」
「縛られるのとか苦手だったじゃん、か」


ああ、と彼が思い出したように呟く。その瞳は宙を仰いで、くっきりとした二重瞼がぱちぱちと瞬きをした。


「おまえさんになら別に、何とも思わなかねえ」


それは遠まわしの愛の言葉なのだろうか?私は一瞬考えこんで、他にそれらしい解釈が見つからなかったのでおずおずと後ろの彼に向って「…私、ちいを独り占めしてもいいってこと?」と聞いた。覗き込むようにして彼を見つめる。真黒い瞳がきょとんと丸まった。


「…よかよ?今更なに言いよっと」
「いいのかよ!」
「どっちかち言うと、俺がをどっかにやりたくなかっちゅーんが正しかかな」
「!」
「こんなん初めてだけん、どぎゃんしたらよかか分からんばい。ばってん、」
「…ばってん?」
「離す気はなかけん、覚悟しなっせ」


にこりと笑った表情は私を射抜くには十分で、その次の「もう爪乾いたんじゃなか?」なんていうあっけらかんとした声は私の頭には殆ど到達しなかった。右耳から入ってきてするりと左耳から抜けていったみたいな感覚だ。マニキュアが乾いたとか乾かないとか、ましてピンク色を塗り直すとかそんなことはどうでもよくなって、情けないため息とともに彼の胸板に背中を預けた。くすぐったそうな声が頭の上から聞こえてくる。


「何ね、ようやくかまってくれっと?待ちくたびれたばい」
「…天然め」
「?」
「ばかー」
「俺は好いとうー」


まるで「まて」と言われ続けた犬がようやく許可を貰ったみたいな勢いでぎゅうぎゅうと後ろから抱きついてきて、ちょっと苦しい。馬鹿、にたいする返事が好き、な時点でいろいろと破綻しているけれど、まあいいか。すっかり塗る気をなくしたマニキュアの小瓶の蓋をきちんとしめて、ローテーブルの端へと追いやった。ピンクも赤も、あとでちゃんと塗ればいい。
がっしりとした右手ですっぽりと抱え込まれて、左手は柔らかく包まれる。二人の距離は殆どゼロになった。長く骨ばった指が私の左手を絡め取り、付け根のあたりをゆるりと撫ぜる。薬指にのせた赤はすっかり乾いて蛍光灯の下で艶々としていた。




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