その日はすこぶる快晴で、それはもう行楽日和です!ばばーん!みなさんお楽しんで!という感じだった。それについてはまあ、文句はないけれども。
新大阪駅のホームを滑るように発車した新幹線は、私と千里を乗せてゆったりと目的地へと走り出した。だんだん、だんだんと速度を上げて。ごうんごうんと音を立てて、窓の外を流れる景色もスピードがあがってゆく。見慣れた新大阪駅が、ぐんぐん遠くなる。

改札内のコンビニで適当に買ったお茶とかコーヒーとかお菓子を座席の前にくっついているテーブルにざらっと広げたりしていると、嬉しそうに千里が「久しぶりばい、さくら」と言った。花の名前が付いた新幹線は、これから3時間かけて私たちを目的の場所へと運ぶ。大阪土産の入った紙袋と2人分の荷物を詰めたキャリーケースを座席の上の棚に乗っけてくれた千里が、窮屈そうに通路側の座席へ座り込んだ。


「前はなにで帰ったんだっけ、みずほ?だっけ」
「ん、そーばい」


買ったばかりのお茶のペットボトルを差し出すと千里はそれを受け取って、慣れた手つきでドリンクホルダーにそのまま差し込んだ。相変わらず窮屈そうで、ちょっと困った笑顔。そんな顔をしたいのは私のほうです、と思ったけど、なんだかフェアじゃないから言うのはやめた。

新幹線の窓からそれはもうギラギラとした日の光が差し込んでくるので少し目が痛くて、カーテンを半分だけおろしてそれを遮った。いいお天気なのはけっこうだけれど、なぜだか私の体力まで太陽に吸い込まれそうな気持ちがした。なんだかなあ、と思う。


千里にとって馴染み深いこの新幹線に、私は乗るのが初めてだった。何度も何度も一緒に旅行をしているけれども、互いに知らない土地だったり2人とも知っている土地だったりしたから、こんなふうに感覚が大きく食い違うのははじめての経験だ。いつかこんな日がくるのだろうなあと漠然と思っていたけれど、いざ来てしまうと、どうにもヘンな感じがした。見慣れない座席のシートは知らない土地へ行くんだという感覚を助長して、どこか心許ない。

落ち着きのない自分が嫌で、さきほどコンビニで調達したサラダ味のじゃがりこ(旅のお供にじゃがりこ、というのが私の信条だった)の蓋を開けて、ばりばりと咀嚼する。左側から大きな手が伸びてきて、長い指でそうっとひとかけらつまんで持ってゆく。ばりばり、ばりばり。
お互いに無言でそれを喉の奥に押し込んだ後で、私はようやくひと息ついた感じがした。千里の手は前の座席のポケットに入っているうすっぺらい観光雑誌みたいなものに伸びる。それに乗っている地名はやはり馴染みのないものばかりで、千里はこれを何度も何度も見ているのかと思うと、長年一緒にいるはずなのに急に知らない時間ができたみたいな感じがして、なんだかなあ…がまたひとつ増える。
長年、 と言ったって、生まれてからずっととか、そういう家族みたいなものではないのだから当たり前だ。知らないところはいっぱいあるし、そんなのはお互いさまだし。そんなことは普段ちっとも気にならないはずなのに、どうも今日は我ながらよくないなあ、と思う。それを知ってるんだか知らないんだか、知っててなにも言わないんだか、千里がいつもと変わらない様子なのが救いだけれど。


熊本へ行こうと千里が言ったのは、半年くらい前のことだ。ちょうど彼の誕生日も過ぎて歳を越して、少しした頃。もういい歳なんだから彼女の1人も紹介しなさいとお母さんにせっつかれたらしく、まあお互い仕事も落ち着いているから、いい時期だし行こうか、ということになった。千里とはなんだかんだでずいぶん長く付き合っているけれど、そういう、いわゆる先のことを示唆するような話はあまりしていなかったから、驚いた。正直けっこう驚いた。それでも、私も千里もそんなに先を急ぐタイプではないから誰かに背を押されるくらいがいいのかもしれない。流されるわけではなかったけれど、このままずっと続いてゆくのなら、という話だった。

一緒に来てくれんね、と言ったときの千里の顔は貴重だったなあ、とぼんやり思う。しばらく忘れることはないだろう。左手の薬指に鎮座する華奢な銀色の輪っかも、まだしっくりこない感じがしてどこかくすぐったい。千里の左手にも同じデザインのそれがちゃーんとおさまっているから、余計に。


「3時間かあ」
「まあ、ぼちぼちたいね」
「しりとりでもする?」
「はは、よかよ」


しょうもない会話をつらつら重ねる私たちをしっかりと乗せたままで、新幹線は熊本までの道のりをどんどん進んでゆく。私は千里が座席の前のポケットに戻したよれよれの観光雑誌を眺めてはじゃがりこを消費し、時々コーヒーをずるずると啜った。千里は気が付いたらうとうととしていたようだったけれど、また気が付いたときにはもう目を覚ましていたりして、とにかく互いに好き勝手に過ごしていた。
窓の外は見知らぬ風景ばかりで、すこし都会っぽいビル群がまとめて過ぎていったかと思うと、また閑静な住宅地になったりして、時々地名が入った看板なんかが通り過ぎて行く。時々やってくる停車駅で人波がごった返すのを見たりしながら、ひとつ、ひとつと、新幹線は目的地へ近付いてゆく。車内販売のワゴンを押したお姉さんも、もう何度通路を通っていっただろう。

ふ、と、千里が居ずまいを正すのがわかった。思わず左側を見上げると、覗きこむような姿勢で彼が小首をかしげる。


「…怖かと?」
「……こわい?」


なにが、とか、だれが、とか、真意がわからなくて、飛んできた言葉をほとんどそのまま返した。千里が襟足をなんとなく触りながら、もう一度くちを開く。形のいいうすい唇が、そうっと動く。こわいって、何が。


「だけん、熊本行くん」


控えめなそれに、すぐには言葉を返さなかった。

彼の口から熊本、という単語が出るたび、お、と思う。
千里の言う「くまもと」はやけにするっと滑るように発音される。生まれ故郷なのだから当たり前だよなあと思うけれど、私がくまもと、と言おうとするとどこかよそよそしい感じになるから、やっぱり違うんだろう。私と彼の中に存在する「熊本」という違いは、たしかに存在する。それはお互いのふるさとに対してお互い様なのだけど、そんなちっちゃなことですら、ちくっとする。へんな違和感みたいなものが、またひとつ棘を刺す。なんだかなあの正体は、これだ。

見慣れない色の新幹線の座席は座って1時間近く経とうかというのに未だにしっくりくる感じがなくて、どうにもそわそわしてしまう。新大阪のホームに止まっているのを見た時はなんとも思わなかったのに。いざ乗り込んでみるとこれは私を見知らぬ土地へ運ぶんだなと思うから不思議だ。今まで何度もいろんな新幹線に乗ったりしたのに、こんな気持ちになるのは初めてだ。千里はこんなにも当たり前みたいにここにおさまっているから尚更。座席が狭くて窮屈そうだけどそれは新幹線に限ったことじゃない、無駄にでかすぎる千里の身長がいけないのだ。

「…そう見える?」ずびび、と、コーヒーを啜った後、ストローを口から離さないまま伺った。千里が長い足をゆっくりと組み替える。


「や、見えん。ばってん」
「ばってん?」
「ぼけっとしとるけん、おセンチさんになっとおやろか、ち思って」


言いながら千里がそうっとお茶を飲む。ひと口だけ口をつけて簡易テーブルに置かれたそのペットボトルは汗をかいていて、滴がゆっくりと滑り落ちてそこに水たまりを作ろうとしていた。千里の指が行き場なさげにそのキャップをゆるく撫ぜる。爪先でかつかつやるのを眺めながら、彼の言葉を反芻した。おセンチさん、ねえ。言うに事欠いておセンチさんて、とか思わなくもないけど、つっこむタイミングを逃したのでそれは喉の奥に押し込めた。

べつに、怖いわけじゃない。ちっとも。嘘じゃない。この先一緒になるのはこの人なんだろうなとなんとなく思っていたし、いろいろな手続きをしながら漠然とだけど先のことも考えたりしていた。お互いに「こいつだ」という確信はあったし、それはもう何年も前からだ。今更そんなことがこわいわけじゃない。薬指のリングがくすぐったいのはまだその冷たい感触に慣れないからだ。嫌なんじゃない。ただ、ただ少しだけ。


「知らない土地だなあって、思って」
「…ん?」


窓の外に目をやりながら小さく答えた。千里がもう少し首をこちらに近付ける。その気配をなんとなく左側に感じながら、通り過ぎてゆく家や、人や、田んぼや公園や、その土地を見送った。多分もう、しばらく来ることはないだろう。まだ見ぬ千里の実家を思って、これからそこに自分を受け入れられにゆくのだと思うと、心臓のあたりがぐっと詰まる。千里が知っている熊本という土地を、私はまだ知らない。


「熊本、行ったことないからさ」
「うん」
「1人では行くこともないだろうから」
「ん」
「知らないところに行くのは、久々だから。ちょっとこわいかな。千里はそんなことないだろうけど」


千里の実家にいくのが、とは、言わなかった。気が付かれたかもしれないけれど、私も千里もそのあとに続く言葉を発しなかった。

怖いわけじゃあない。そんな仰々しい感じではない。けれど、情けないことにいささか不安なのもまた事実だった。千里が生まれて育った町だ。千里の実家だ。家族が暮らすまちだ。そこは千里の生きた残り香みたいなものがかすかにでもするのだろうと思う。私が生まれた町にも私のそれが残っているような気がするから、おそらくは。


「帰省ん時はいつも1人で乗るけん、おまえさんが一緒なんはへんな感じすったいね」
「なに、へんって。失礼だな」
「そぎゃん意味じゃなかとよ」
「わかってるよ」


わかってる。自分に言い聞かせるみたいに強い口調で言ったら、はいはいと笑われた。こういう時だけ長男気質だから千里はずるい。私がぼんやりと漠然に、だけど確実におセンチさんになっているのを、千里はちゃーんとわかってる。わかってて黙って隣にいるから、あとはもう何も言うことがなくなるのだ。のんきにじゃがりこなんかつまんでいるけど、この人の懐の広さとか、どうなってんの?と思うくらい広い。わりとなんでも受け止めてしまう。

そんなんだから千里は私ほど未知を恐れない。根っからの放浪癖もあってか、知らない町でも、路地でも、どこへでも1人で行ってしまう。それを追いかけて行くのが、手を繋がれて一緒に歩くのだとしても、私はあまり得意じゃなかった。今でこそずいぶんマシになったし、大人になってからの1人旅もまあ悪くはないと思えるようになったけれど、それは多分千里と一緒にいるからそういうのが移ったんだろうと思う。もっと前、子供の頃なんかはとくに、知らない土地がこわかった。できることならずっと生まれ故郷で暮らしていたいとすら思っていたくらいだ。


だから、中学の時に東京から大阪に引っ越すことになったときも相当ごねた。ごねてごねて猛反対したのだけれど、父親の転勤についてゆくという母の確固たる決意に、子供だった私はなす術もなく従うしかなかった。友達と離れるのも嫌だったし、制服が変わるもの嫌だった。大阪というとやかましくて騒がしくてうるさいというイメージばかり先行していたし(今だからわかるけれど、多分そのイメージの半分は正解で半分は間違いだ。大阪の皆さんごめんなさい。でも未だにやかましいと思っているのも確かだ)、とにかく、たった14年しか生きていないこどもにはそれまでの環境がすべてすぎたのだ。当時中学2年生だった私には、引っ越しも転校も苦痛でしかなかった。

むりもないなあ、と思う。だって、その頃の私はまだ知らないのだ。その大阪という街の匂いも、空気も、感触もなにもかも。そこで出会うたった1人のひとのことすらも。


***


いやだいやだと言い続けていたせいもあってか、転校というものは本当に苦痛だった。

中学2年の春から通った大阪四天宝寺中学校という学校はそれはもう異彩を放った学校で、どうやら大阪でも有名な中学のひとつだったらしい(後から知った話だが)。なにかにつけてはお笑い、ボケとツッコミ、漫才、コント、というような雰囲気が広がっていて、正直言ってまったく馴染めなかった。最初のほうこそ東京モンが転校してきた!という物珍しさであれやこれやと話しかけられたりしたけれど、私があまり多弁なタイプでないとわかると、自然とその押し寄せていた波はどこかへ引いていってしまった。
勿論クラスや部活で友達はできたけれど、学校の校風や雰囲気そのものにはいつまで経っても慣れることはなく、どこか他人行儀な感じで過ごしていた。うすい膜みたいなもので1枚遮断されているような、そんな感じ。きらいだったわけではないけれど、私の居場所ではないんだろうな、とすら思っていたくらいだ。まくしたてるような大阪弁のテンポはいつまでも掴めなくて会話をしているとヘンな間を作ってしまうときもあったし、お笑い番組とか熱心に見るタイプじゃないし、校内でゲリラ的に行われていたお笑いライブはまあそこそこ楽しかったけれど、それだけ、だった。
東京の学校の友達との連絡がだんだん少なくなっていったのも寂しかったし、昼休みに当たり前のように通っていた小学校の話になったりしても付いていけない。小学校の時の同級生だったナントカくんがどこどこの中学でーとか、知るか!誰だよ!と思っていた。小さな棘がいつまでも刺さり続けながら、私はじっと耐えるように中2の1年間を過ごしていた。楽しかった思い出もたくさんあるはずなのに、マイナスな記憶の積み重ねのほうがずしんと重いのは、私の性格上だろうか。そうだったにしても、それは少しさびしいことだな、と今になって思う。


千里と会ったのはその次の年だ。中学3年の春。
私と同じように転校生として四天宝寺中にやってきた彼は、やっぱりというかなんというか、転校生というラベルをべたっと貼られてそれはもうちやほやされていた。私の比ではないくらいに。たぶん彼の見た目もずいぶんと作用したのだと思う。190センチを越えるすらりとした長身に、細身で、きついパ ーマをかけた黒髪は日に焼けた肌によく似合い、どこかエキゾチックな雰囲気を漂わせていた。熊本、という、大阪の人々には馴染みのない土地から来たというのもまたひとつ人気の要因だったのだろう(私も初めて訊いた時は思わず熊本ってどこよと日本地図を頭に思い浮かべて唸ったものだ。熊本の皆さんもごめんなさい)。極めつけは、彼のことばだ。薄い唇から零れるのは、まぎれもない熊本弁なのだ。それも生粋の。聞き取れないくらいの。

「ウケる」とか「オモロイ」のだという。その、彼の話すことばが。まるで異国の言葉のようにすらすらと紡がれるそれは大阪弁の飛び交う中学校の中でひとつの個性として確立され、そして「転校生の千歳千里くん」はクラスメイトのみならず、次々と学校の生徒に認識されていった。本人にそういった意図はまったくなかったと思うのだけれど、彼はただ生活しているだけで、人の目を惹いた。

私はそのクラスメイトの千歳千里くんがそうして人の囲まれているくせに飄々としていられるのが理解できなくて、ずっと気になっていた。おそらく最初は、あまりよくない意味で。千歳くん、大阪がやかましくないのだろうか、と勝手に思っていたくらいだ。東京から来た私は大阪という街にいまだに拒まれている感じすらするのに、千歳くんからは何故だかそんな感じがしなかった。するりと風か雲のようにまちの中に入り込んで、すとんと落ち付いている、という風だった。転校してきてほんの2、3ヵ月でそんなふうにしっくりと馴染んでゆく彼がわからなくて、気がかりで、妬ましくて羨ましかった。私にはできないことが、千歳くんにはできていた。それも当たり前に、意識なんかしなくても、もともとそういうものですよ、とでも言うように。

クラスメイトの千歳くんとは委員会が一緒だった。と言ってもあまり頻繁に活動するような委員会ではなかったし、千歳くんの出席率なんて50パーセントを割っていたから、ほとんど私が1人でやっているようなもんだった。だいたい中学校の美化委員なんて、まあ校内の清掃をがんばりましょうとか、花壇のお手入れをしましょうとか、そんな感じだ。

ちょうど玄関先の花壇に新しい花の苗を植えるという活動があって、放課後にせっせと精を出して終わってから教室に荷物を取りに帰ったら千歳くんとばったり出くわして、「あ、えーと、委員会忘れとったばい。ごめんね」と白々しく言われたこともある。
嘘だろ、今そそくさと帰るとこだったでしょ、とつっこむと、困ったように 笑って「目ざとかねー」と言うので、私はいっそう千歳くんがわからなかった。


***


「おまえさん、大阪ん人やなかとや」


のらりくらりとした口調で千歳くんにそう言われたことがある。慌ただしく春が過ぎ、夏の足音も聞こえる時期だったと思う。私がまだ千歳くんの生態がわからなくて1人で悶々としていた頃だったから、たぶん。

「うん、そう。去年の春に東京からこっちに来たの」
「東京、」


千歳くんが確かめるようにこぼした、トウキョウという言葉は、ずいぶんと言い慣れていないようでどこかおかしかった。東京ねえ、ともう一度千歳くんが言う。右目をすっと細めて、「俺ん友達も東京におるばい。ずいぶん会っとらんけど」と言うから、驚いて大げさな声が出た。


「えっ」
「えっ?」
「えっ…あ、いや、ごめん、なんかその…意外で」
「…おまえさん、俺んこつ何やと思っとーと」
「はは、ごめん」
「なんね、俺やって友達くらいちゃんとおるばい」


そのとき千歳くんがちゃんと私の方を向いて、くしゃりと顔を崩して笑った。楽しそうに。目が合って、笑われた瞬間にうわっと思って、心臓がびょんっと跳ねた。私も楽しくておかしくて、何故だかどきっとして、そのとき初めて千歳くんという人にきちんと触れたような気がしたのだ。それまでずっと外側から眺めていた「転校生の千歳千里くん」の、上澄みではない部分。ああこの人は本当はこうやって笑うんだと思って、どきどきした。知りたい、と、つよく思った。

その少し後くらいの頃から、千歳くんとはよく話をするようになった。多分その件以来親しくなったと思うようになったのは私だけではなくて、千歳くんのほうもそうだったんだと思う。お互いに1歩ずつそうっと距離を縮め、会話を重ねてはその感触を確かめていた。私は千歳くんを少しずつ受け入れはじめていたし、その頃には千歳くんのことも徐々にわかりはじめていた。千歳くんも私のことを、そんな風に思っていたんだろう。たしかにそんな感覚があった。

東京にいるきっぺーという友達のこと、妹のこと、所属してるテニス部のことや、あらゆることを聞いて、そして私もあらゆることを話した。昼休みに学食で一緒にごはんをつつき、放課後に学校の裏山に連れて行ってもらい、時には帰り道を一緒に歩いた。はじめて手をつないだのは雨の日で、少し先を行く彼に引っ張られるようにして軒下を探して雨宿りをした。
あの日から、彼の体温は変わらない。掌の感触もずっと同じだ。私は千里のその感覚を知っているけれど、千里は自分のそれを知らない。同じことが私の掌にも言えるのであって、同じように考えているのだろうなと思うたび、どこか不思議でくすぐったい感じになる。

千里の手は大きくて、人より少しだけあつくて、かさついている。力を込めて私のそれをぎゅうと握られると、私のほうも熱くなる。そこから熱を吸い取るみたいにして、思わず私も握り返してしまう。その瞬間にお互いの心臓がきゅうっと鳴くのがどうしようもなくわかって、私たちはたびたび手を握り合った。今思うとこっぱずかしくて発狂しそうだけど、当時は大まじめにドキドキしながらせっせとそのときめきに勤しんでいたのだ。

そんな中学3年の1年間は私にとって激動と言うべき1年で、それはまあ千里との関係ということもあるのだけれど、春も夏もとにかくめまぐるしかった。中2の、じっと堪えるような1年間が嘘のように、ジェットコースターのように日々が進んだ感じだった。


千歳くんが所属するテニス部は全国でも有数の強豪で、毎日厳しい練習をしているのは知っていた。それに千歳くんがどれだけ参加していたかということは置いておいても、千歳くんがとにかくテニスが上手いというのも、その夏に練習試合を見る機会があって知った。まるで別人のように、どこかしがらみみたいなものから解放されている千歳くんを見るのは、むちゃくちゃどきどきした。むちゃくちゃだ。もうあんな高鳴りはないってくらい、どきどきしていた。

コートの中の彼は見たこともない表情をしていて、私には彼の世界に触れない、とすら思ったくらいだった。けれどもひとたび試合が終わるといつもの穏やかな表情で私を見つけてくれたので、たぶん千歳くんの中にはちゃんと私のいるスペースが確保されているのだろうと思って、すこしだけ安心もした。スイッチみたいなものが彼の身体のどこかにあって、テニスのときだけそれがパチンと音を立ててオンになるのだろう、とそのときはじめてわかった。テニスというものが千歳くんの根幹にかかわる大事なものであって、それはもはや不可侵の領域なのだということも。テニスをしているときの千歳くんは、輝いていた。いまもしっかりと思い出せるくらいに、きらきらしていて、なまめかしくて、目が離せないくらいの輝きだった。あんまり言うと恥ずかしいから本人に伝えたことはないけれど。

私の名前を呼んで、フェンスの向こうから駆け寄ってきて、ためらいなくぎゅうっと掌を掴んだその左手の熱さにやっぱり心臓が飛び跳ねたことも、ちゃんと思い出せる。少し照れた千歳くんの顔も、大きな身体をかがめて距離を詰めてくれたことも。


あの時、15歳の夏。
あんなにも馴染めなかった大阪という街で、熊本からきた千里と、東京出身の私は、一生懸命に恋をしていた。じっとりと湿度の高い夏だったけれど、そんなのはものともしないくらいに互いにつよいつよい感情だった。千歳くんが差し出してくれた手を、私は何度も捕まえた。自分から手を伸ばして彼をつかんだこともあった。私からも千里からもちゃんとそれぞれに糸を伸ばして、紡ぐようにして。ときどきはきつすぎるくらいに絡め合って、または、ゆるやかに編み込むようにしたりしながら。いつも熱を燃やし続けていたわけではないけれど、ほどほどの距離感を保っていた恋だった。だからこそここまで続いたのだろうと思う。

だから、そんな風に時間を重ねていたら気が付いたらもうこんなところまで来ていた、という感じだ。あっという間に1年も2年も過ぎて、千里と2人でずいぶんと遠くまで来ていた。なんたってその中3の頃というのがもう10年以上も前のことなんだから、時の流れが早すぎてびっくりする。あの頃からなんにも変わった気がしていないのに、いつのまにか体だけが勝手に大人になっていた。高校も大学もそれなりに楽しく過ごして、いつのまにかお酒が飲めるようになって、仕事をして、こうして、一緒に新幹線に乗って千里の実家に挨拶にゆこうとしている。それも、私があんなに馴染めなかったはずの大阪で2人で暮らして、だ。14歳の私に話したらさぞびっくりするだろうな 、と思う。というか信じないだろう。誰だよ千歳千里くんって、と言うだろう。人生ってよくわからないな、とちっぽけな頭で壮大なことを考えていた。これから先はたぶん、もっとわからないことだらけなのだろうけど。


***


『次は博多、博多ー』


車内アナウンスの声で我に帰った。はかた、と小さく零すと、左の通路側に座った千里が「あっちゅーまたいね」と頷く。
うん。あっという間だ。長いようだけどあっという間だった。むしろこの先の方が長いかもしれないのに、とは、言わなかった。

熊本まで、あとどのくらいだろうか。そう遠くはない目的地を思ったら少し胸のあたりがざわついた。もうすぐ千里の地元に着く。私の知らない、千里のいた土地だ。


「熊本ん着いたら、ちっとぶらぶらせんね」
「え、いいの?おうちの人待ってるでしょ」
「よかよか、べつに急いどるわけやなかろ」
「そうだけど」
「一緒に熊本まで来るこつ、しばらくなさそうやけんね」


ゆっくりしていったらよか、と千里がこっちを向いて笑うので、私もうんと笑い返した。千里が見てきたものを、私も一緒に見ることができる。そう思うと少し嬉しかったけれど、同じものを同じように見つめられるか不安にもなった。べつに、そんな必要はどこにもないんだろうけど。

私は熊本に、受け入れてもらえるのだろうか。千里の生まれ育ったふるさとの町は、私を拒みはしないだろうか。もう滅多に来ることはないだろう土地なのにそんなことばかり考えた。べつに、ちょっとくらい嫌われようがたとえば大雨が降ろうが、ほんとうはなんてことないのに。最低限、千里の家族だけが認めてくれれば、それでいいはずなのに。

どうも私は土地に対する思いが良くも悪くも強すぎるらしい。子供のころはずっと東京にいたいとばかり思っていて、大阪だってようやく馴染んでいるといえるようになったくらいで、こんどは熊本に受け入れられたいなんて、ちょっとわがまますぎるだろうか。それでも千里が生きてきた場所なら、千里の気持ちがときどきそこへ還っているのなら、私も知りたいと思ったのだ。私は千里のようにあちこちへするりと流れてゆくようには生きられないから、ほんのちょっとのご挨拶程度の滞在だって、どきどきする。

ふいに千里の右手が、私の左手をきゅっと掴んだ。当たり前のように触れるその温度の高さに心臓が少し落ち着きを取り戻す。ん?と左側を見上げると、 何故だか私の緊張が移ったような顔。


「俺が挨拶に行くときも、たいぎゃ緊張すっとやろか…」
「…するの?千里が?緊張?」
「なんね、それ。そらちっとはするばい」
「ちっとね」
「そんときんこつば考えたら、なんやどきどきすったいね」
「ふふ、なんだそれ」


千里の実家へ挨拶へ行ったら、今度は私のほうへ、ということになっていた。私が大学へあがるのと同時に父親はまたしても異動で東京へ戻ることになり、母はそれに付いていったけれど、私は大阪で1人暮らしをはじめたのだった。なので実家、と言われるとまあ微妙なのだけれど、とにかく両親はそろって東京に住んでいるから、今度千里と一緒にゆきます、という話をつけていた。そのときにはおそらく、千里も私と同じような気持ちになるのだろうか。私ほど臆病じゃないにしても、どこか心許なくなったり、不安になったりするんだろうか。千里もまた、東京に受け入れられたいなんて思ったりするんだろうか。


「だけん、お互い様かもしらんね」


見透かしたように千里がやわらかく笑う。千里の右手の指が、私の左手の薬指のあたりをゆっくりと何度か行き来した。そこにあるつながりを確認するみたいに。

そうなんだろうか、結局はお互いさまってことだろうか。私は悩んでいるのが急にばかばかしくなって、座席の背もたれにぼふっと体を預けた。受け入れられるかどうかなんて、そんなの行ってみないとわからないよなあ、ということだ。
もしかしたら、新幹線を降りたら途端に大雨かもしれないし。お土産の袋を車内に忘れたりするかもしれないし。それでもまあ、せめて千里と、千里の家族が私を迎え入れてくれるのなら、もうそれだけでいいのかもしれない。べつに、熊本に永住したりするわけじゃないんだし。

そういうことかな、と思って、ちらりと千里をみたら、思った以上に距離が近くて驚いた。
びっくりして体を引こうとしたけれど、かさついた指先にぐっと力が込められて、あ、と思った時はもう、つぎの瞬間が来ていた。

くちびるに1秒だけやわらかな熱が宿り、ゆっくりと大きな影が離れてゆく。


「…千里さん」
「はい」
「弁解は」
「なかです。えーと、調子に乗りました、すいまっせん」


なにやってんだと思ったけれど、千里が大きな体をしゅんとさせて叱られた犬みたいにするから、なんだかいまいち怒りきれない。車内に人が少ないからいいけれど、いやそれにしたって、こんなところでキスなんていい歳して何やってんだこの男は!


「人前でそういうことするの、気が引ける」
「…うん」
「俺は別に、みたいな顔しない」
「ハイ、すんません」


悪いと思ってないでしょ、と言ったら適当にはぐらかされた。信じられない。次やったら殴る、と言ったらさすがにまずいと思ったのか、真剣な声ですんませんと言われてちょっと笑えた。笑わないけど。

あーあ、なんかもう、どうでもよくなってきた。
とにかく熊本が私を拒んだとしても私はこの人を熊本に返してやるつもりはさらさらないのだし、一緒に熊本に住もうとか言われたらそれはちょっと考えるけれども、とりあえずその時までは、何が私を拒んでも、千里は私を拒んだりはしないのだし。

「熊本に着いたらなんか美味しいものでも奢ってね」と言ったら、「よかばい」と嬉しそうに言われて、すこしだけ気分が軽くなった。
なにが、誰が私を拒んでも、千里は受け入れてくれる。極論だけどそれってずいぶん心強いことだな、と、しっかりとした重さで頷いた。

新幹線は私たちを乗せて、熊本へ向かう。これから長い道をゆったりと歩んで行くであろう、私と、千里を連れて。


「…今んでとれたと?緊張」
「とれるか!」



inserted by FC2 system