「もー!ばか!ばかばかばか!何で言ってくれないの!!!!」
「だからごめんって言っ、」
「うるさい!」
「……」


さっきからずっとこの調子だ。よくも怒りつかれないものだと我が彼女ながら思う。ぼんやりと曇った窓ガラスの外を眺めていたら「聴いてるの!?」と怒鳴られる。はいはい、と返事を一つ。まあたしかに俺が悪かった、かもしれないけど。


そもそも俺は誰かに縛られるのは得意じゃない。頻繁にメールや電話をしたり手紙を書いたりなんてする筈もないし、やれって言われたって出来ないだろう。それでもそんな俺を甘んじて受け入れてくれた彼女だからこそ、俺は自由にテニスを仕事に出来ているわけだし、時々羽を休めることも出来る。今日はその羽休めのつもりでトレーニングや調整の合間を縫って久しぶりに日本へ帰って来たのだ。ロスから日本まで11時間。長いフライトと時差ボケは慣れたとは言え多少の疲れは勿論出る。それでも彼女に会いたい気持ちが先行して、気だるい身体に鞭を打って彼女の住むマンションまでやってきたわけだ。カルピンと母さんは元気にしているだろうか、と一瞬思ったが、実家へは後で向かえばいいということにして。

そうして空港から彼女のマンションまでをタクシーで移動している間に、そう言えば彼女自身には何の一報も入れていなかったな、と思い出した。時差と言う隔たりはあれど世界のどこに居たって連絡の取りあえる時代なのだ、「来月帰るから」とかいうメールを打つ暇が無かったわけではない。忙しさにかまけて後回しにしているうちに今日になってしまったというだけの話だ。まあ連絡せずに帰るなんて今に始まったことではないのだし、もし彼女が家にいなければ待っていればいい、合鍵はとっくの昔に貰っている。・・・そう思った俺が悪かったっていうなら、謝るけど。

彼女の部屋についてノックをしても応答がなかったので、出かけているのかと思いつつ何気なくドアノブを回したら、あっけなく回ったのだ。そのまま手前へ引けばやはり部屋の鍵は開いていて、不用心さに顔を顰めながらもそのまま室内へ上がり込んだ。リビングのドアを開ければローテーブルに突っ伏したまま眠っている彼女の姿が目に入って、ようやく安心して俺はソファに腰を下ろした。それにしても家にいる時も鍵閉めとけって言ったじゃん、なんて思いつつ。そうこうしているうちに彼女が目を覚まし、わけのわからないという顔でおろおろしていたのでとりあえず「ただいま」と言ったら、ものすごい剣幕で彼女が怒り出した。で、今に至る。


「連絡くらいしてっていつも言ってるでしょ!本当びっくりするんだから!」
「忘れてたんだってば」
「忘れないでよ~…!」
「こっちも言わせてもらうけど」
「なに?」
「鍵開けたまま寝てるなんて不用心すぎじゃない?」
「な、」
「入ってきたのが俺じゃなかったらどうすんの」
「……ごめんなさい、気をつけます」
「じゃ、これでおあいこってことで」
「もー…!」


そういうと彼女は脱力したように再びローテーブルに突っ伏した。「おあいこじゃない、全然おあいことかじゃない」と恨めしそうにぶつぶつ呟いて。

一息ついて改めて室内を見回せば、雑誌は床に積み上げられ彼女お気に入りのクッションたちも雑然と散らばったまま、ローテーブルの足もとには大学で使っているのだろうテキストやレポート用紙の山が出来あがっている。なんならベッドの上にはパステルカラーの可愛らしいパジャマが脱ぎっぱなしだ。片付いていない彼女の部屋に足を踏み入れるのは初めてではないけれど、まあ彼女としては見られたくないものだろう。俺はそんなのちっとも気にしないのだけれど。どんなに散らかった部屋だろうと何だろうと、彼女がいればそれでいいのだ。俺は綺麗な部屋じゃない、彼女に会いに帰ってきたのだから。


「…桃先輩の家ほど散らかってないって」
「全然フォローになってないし、部屋のことじゃないし」
「じゃあ何」
「リョーマは乙女心をわかってないよ」
「へえ。乙女、ね」
「悪かったね!」


がばり。突っ伏していた身体を起こした彼女はまだむくれていて、その表情のまま「コーヒーいる?」と一言。俺はその突然の気遣いが妙に面白くなって喉まで出かかった笑いを押しこめながら「いる」とだけ答えた。どうしてこのタイミングで急にそんな言葉が出てくるのかまるでわからないけれど、この突拍子の無さがあってこそこの人なのだ、と思う。久しぶりに会ったというのに何も変わらない、悔しいけれど可愛いひとだ。すぐ拗ねるところも飾り気のないところも、俺のことをちゃんと見ていてくれるところも。コーヒーを淹れるべく立ちあがった彼女が当たり前のようにソファの背にかけっぱなしだった俺のコートとマフラーをきちんとハンガーにかけようとする背中を眺めて、ますますそう思う。髪が揺れて俺の手が自然に彼女の指先に伸びる。


「ねえ」
「なに?」
「やっぱ、コーヒーは後でいいから」
「いいの?」
「いいよ」


柔らかく捕まえた白い手ごと彼女を引き寄せた。わ、と小さな声が上がって驚いたような顔を間近で見つめる。そのまま数センチ先のくちびるを掠め取ろうとしたところで、何故か彼女はむっと口を尖らせ俺の肩口をそっと押し返した。「…何ソレ」予想外のことで思わず反論の声を上げてしまう。


「だから乙女心がわかってないのー」
「は?」
「…何で久しぶりに彼氏に会って、汚い部屋ですっぴんでちゅーしなきゃなんないの」


そう言って彼女はぺちんと俺の額を叩いて、「コーヒー淹れる!」と言い残してキッチンへ足を向けてしまった。面食らった顔をして取り残された俺は相当間抜けな顔をしていたと思う。

たしかに今日の彼女はメイクのひとつもしていなかった、けど。けど、それだけ?彼女の提唱する乙女心なるものがますますわからなくて、し損なったキスが口惜しくて、今度は俺が脱力して柔らかいソファにずっしりと沈んだ。彼女にはたかれた額に柔らかく触れながら、キッチンにいる彼女に届くように少し大きな声で「どっちだっていいじゃん」と言う。すっぴんだろうとメイクをしていようと、どっちだって。あんたなら何でもいいってば、なんて直球に言う素直さを生憎俺は持ち合わせていない。不二先輩あたりだったらサラッと言ってしまうのだろう、とこれまたしばらく会っていない人の顔が頭に浮かんで、すぐに掻き消した。もどかしい。というか狡い。久しぶりに会ったというのに怒った(正確には拗ねた、だけど)顔ばかりで、指先に触れてしまえばもっと欲しいと思ってしまうのに。

コーヒーメーカーから立ち上る香ばしさと共に、呆れたような声が飛んでくる。


「どっちでもよくなーい」
「あっそ」
「拗ねない拗ねない」
「……にゃろう」
「自分だけかっこよくなって帰ってきて、私がすっぴんなんて許せない」
「意味わかんないし」
「わかってよー」
「やだ」


ぴしゃりとそう言い放って、重い腰を上げてソファから立ち上がった。
そっちがその気なら俺だって容赦はしない。彼女には悪いけれど、久しぶりに帰って来たのにお預けなんて出来る筈がない。きちんとメイクをした顔は勿論そうだけれど、すっぴんの彼女にだって俺は会いたかったんだ。大体、嫌だ嫌だと言われたほうがかえって火がついてしまう俺の性格を忘れているほうがいけない。誰にするでもなくそう頭の中で言い訳をして、彼女へ続くコーヒーの匂いを追う。マグカップを選ぶその飾らない後ろ姿を腕の中に閉じ込めて、キスをして、それから「おかえり」をくれるまでは、離してやるものか。



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