散歩へ行こうよ。有無を言わさぬ勢いで不二くんがそう言ったのでしぶしぶ着いてきた先は、大学から少し離れた公園沿いだった。坂の多いこの街の中でもいちばんの高地に位置するそこは公園と住宅地以外はほぼ何もないと言ってもいい。大学の近くに住んでいる私ですらあまり来たことのないこの場所を、どうして不二くんは我が物顔で歩くんだろう。昼休みの後の授業が空きコマなので時間はたっぷりあるけれど、相変わらず不思議な人だなあ、としみじみ思う。人を誘っておきながら自分のペースで歩いたり止まったりするし。ぼんやりとマフラーに顔をうずめながら私は不二くんの半歩後ろをゆっくりと歩く。


ちゃん」


カシャリ、とそこでひとつ小気味のいい音。はっとして不二くんを見れば悪戯っぽい声で、黒い機械越しにこちらを覗いている。ストラップで首からぶら下げられたソレは写真サークルに所属する彼の愛機の一眼レフだ。つやつやした黒いボディが日の光をきらりと反射する。


「…撮った?」
「どうでしょう?」
「人とか、撮るんだ」
「たまにね」
「事務所に許可とってください」
「あははははは!」


悪戯好きの不二くんのことだ、どうせぼーっとしている私をばっちりレンズにおさめているんだろう。やられた。顔をしかめて「勝手に写真を撮られた芸能人」みたいな表情で怒れば、不二くんは大げさに笑った。何がそんなに面白いのかわからないけれどひとしきり笑ったあとで、ちょいちょいと片手でこちらに手招きをする。ちょっとだけ警戒すると「心外だなあ」と思ってもいないような口ぶりで言うので、適当にはいはい、とか言って彼へすこしばかり近寄る。内緒話をするみたいな声で不二くんはまた小さく私を呼んだ、「ちゃん」。


「なに」
「…ほら、見てごらん」


不二くんが促すみたいについと首を上げた。柔らかそうな彼の髪が揺れる音がこちらまで聞こえたような気がする。さらり。そうして不二くんの真似をするように私も斜め上を見上げて、その瞬間、息をするのをたしかに忘れた。
時間が止まった、と思った。


「……空、」
「うん」
「……東京にも、こんな空があったんだ」


やっとのことでそれだけの言葉を吐き出すと、語尾は情けなく揺れていた。頬に冷たい冬の空気がちらちらと霞む。不二くんが促す斜め上空は例えば綺麗なビー玉を透かしたみたいな、海の底を溶かしたみたいな、そんな半透明さを持っていた。排気ガスに汚れた背の高いビル群も無い、車のクラクションも都会の音もしない、ただ純粋な空だけの色、シンとした色。手の届きそうでずっと遠い、だだっ広い「ほんものの空」が、そこに広がっていた。

こんな、東京の真ん中なのに。ずっと離れた私の故郷にあった空とまるで同じものが、そこから遠く離れた都会にもあったのだ。私が知らなかっただけで。そして東京にある半透明の空を、不二くんは知っている。東京のひとなのに、不二くんは私と同じ「空」を知っているらしい。
どうして、と問いかけそうになった私の言葉は口から出るまえに不二くんにそっと遮られる。まるで、私が「どうして」と言うのを待っていたみたいに。


「佐伯の実家、千葉にあるだろ」
「え?…ああ、うん」
「何度か遊びに行ったことがあるんだ」


その時に海の近くで見た空が僕も衝撃的だったんだよ、今のきみみたいに。きみの実家ほど綺麗じゃないと思うんだけど、やっぱり、「東京」のよりはずっと透き通ってて綺麗だろ?空気が違うんだね、きっと。

ごつごつして重そうな一眼レフを両手で抱えたまま、不二くんは私を見ないでそう言う。斜め上をぼんやり見上げた横顔はとても端正で、彫刻みたいな人だな、なんて思う。それでも彫刻の瞳は柔らかく細められ、ほんとうに大切なものを見るみたいに甘やかに宙を映す。空には昼間の白い月が僅かに欠けて浮かんでいて、それを見つけたらしい不二くんは「あ、」と小さく零してひどくのんびりした動きでカメラを構えた。四角くて小さなフレームの中に白い月を捕まえて、きゅっと目を細め、口を噤んで。パシャリ、パシャリ。2、3回ほど小気味いい音を立てたかと思うと不二くんは満足そうに笑って、またカメラを首からぶら下げる。とてもマイペースに。

佐伯。通称サエくん。不二くんを通じて知り合った彼は学年こそ一緒だけれど、学部もサークルもぜんぜん違う。それこそ「不二くんの友達」ってことくらいしか共通点がないくらいだけど、それでもずいぶんと気の合う間柄だった。千葉を出て一人暮らしをしているのは知っている。彼もまたトウキョウの空に圧迫されている人の一人だ。

そっか。と小さく心の中で呟く。そっか、そうなんだ。やっぱりサエくんにもあるんだ、私と同じように「自分の空」が。


「…うん、そう」
「そう?」
「空気がね、ちがうんだよ。東京と田舎は」


噛みしめるみたいにして、不二くんの言葉を反芻する。瞼の裏で揺れるのは東京よりずっと外れた故郷の空色で、懐かしさで鼻の奥がつんとした。向こうにいた頃はこんな空をいつも見ていたのになあ。東京で毎日見ているの筈なのは何色の空だっけ。冬の空は背が高くて、自分と、少し前を歩く不二くんの背も、ずいぶんと小さく感じる。

不二くんはなんでもお見通しだ。私の抱えているちっぽけな悩みも寂しさも全部を見透かしてしまう。シャッターを切るみたいに鮮明に。それは多分不二くんだけじゃなくサエくんもきっとそうで、私はなんて鈍感なんだろう、と同時に思う。きっと二人が同じように悩んだり寂しくなったりしたときに、私はこんなふうに上手に傍にいることなんか出来やしないだろう。それでかまわない、それでいいんだって、わかっているけれど。「優しいね」口をもごもごさせて小さく呟いた私の言葉を、やっぱり不二くんは優しく聞かないふりをした。


「ここ、このあいだ偶然歩いていて見つけたんだ」
「うん」
「それで、ちゃんに似合うと思って」
「似合う?」
「うん、ぴったりだ」


ブーツの踵を鳴らしながら不二くんは笑みを深める。不二くんの言ってることは難しすぎて私には時々よくわからないのだけど、この人が満足しているのならいいや、とそう思わせてしまう力が彼にはある、と思う。今だって不二くんはすっかり自己完結したみたいにして、前を向き直ってしまった。ゆっくり、ゆっくりと、周りの景色や透けた空を眺めながら、それらを味わうみたいにしてのろのろと歩く。不思議とそのペースが私にも心地よくて、半歩後ろをやはりのろのろと私も歩く。東京にしてはひどく綺麗な、澄んだ空色の下に投げ出された二人。私は何故だか、生まれた町の線路沿いの風景を思い出したりしていた。
かつん、不二くんの踵が響く。かつん、植え込みの枝に蕾がついている。かつん、私の踵が響く。かつん、かつん、コツコツ。二人分のリズムの違う靴音が乾いた空気に浸透して、ずっと遠くまで鳴り渡る。


「不二くんは、綺麗なものを見つけるのが上手なんだね」
「見ているものをどれくらい綺麗と思うかどうか、じゃない?」
「…そう?」
「僕はそうしてる」
「…そう、だよね」
「佐伯は、もっと素直になんでも綺麗って言うと思うよ」
「そうかなあ」
「少なくとも僕よりはずっと素直だよ」
「あ、そうだね」
「ちょっと」
「ふふ」


自分から言ったくせして口を尖らせた不二くんはちょっとだけ子供っぽくてかわいらしい。もうすぐ大学3年になるっていうのに。


「…サエくんの地元、私も行きたいな」
「今度は一緒に行こうか」
「うん」
「きっと夏がいいから夏まで待ってって言うだろうね」
「春もまだなのに、遠い話だなあ」
「そうでもないよ」


不二くんは楽しそうに声を弾ませて、首だけで器用にこちらを振り向きながら歩く。坂道だから気をつけてよ、そう言うと息だけでうん、みたいな返事をして、瞳をあたたかくしてこう言う。


「春がもうすぐ来るってことは、夏もそう遠くないよ」


冬の気温で冷たくなった頬ではすぐに頷くことが出来なかった。けれど不二くんはあまり気にしていないようで、坂道の途中でぴたりと立ち止まって、ふいに塀の向こうへカメラのレンズを向ける。マイペースにも程がある。


「ほら」
「え、」
「また、蕾がある。かわいいね」


どこかの家の庭木についた小さな蕾が不二くんの手によってフォーカスされ、カシャリ、とシャッター音と共に一眼レフの中に収まってゆく。なんか魔法使いみたいだな、とか思いながら、不二くんはきっと私とはまったく別の世界が見えているんだろうなあ、とも思った。きっと不二くんのアンテナは東京にも見知らぬ地方にも飛んでいて、ずっと先の季節も、道端の花でさえも受信することができるんだろう。きれいなのは世の中じゃなく不二くんのほうだ。

「ねえ、」レンズを覗いていた瞳がゆっくりと私を捕え、その青さにどきっとしてびくりと肩が跳ねあがる。半透明を見透かす二つの瞳がやわらかく揺れて、睫毛が影を作っていた。やっぱり彫刻みたいなひとだ。


「見てみたいな、今度はきみの地元の景色も」
「…サエくんの家よりずっと遠いよ」
「知ってる」
「何にもないよ、田舎だし」
「それも知ってる。でも、」
「ん?」
「でも、きみのいた町だから好いんだよ」


半透明の雲の隙間から日の光がゆらりと差して、不二くんの肩のあたりを照らした。こっくりした色の彼のマフラーが温みを増した色をする。そうだねと、100%の純度で私は答えることができた。頭の中に散らばったモノクロ写真の故郷は、いつのまにか鮮やかな色を取り戻していた。背の高い空も怖くなるくらいに澄んでいる。私がつけた足跡がきちんと残っていて、私のすきだった人たちがいる。そうそう、あの町の空もここと同じような色をしていたっけ。


「不二くんは格好良すぎて、田舎には似合わないよ」
「行ってみなくちゃわからないさ」
「なんでそんなに自信満々なの」
「さあ?」


その鮮やかな地元の空の下にいる不二くんを想像したら、あまりにも不似合いで堪え切れずに笑ってしまった。釣られてか、不二くんも肩をすくめて笑う。彼の綺麗な指がカメラのレンズをゆるりと撫でる。


「不二くん」
「なに?」
「今度、カメラ教えてよ」


私も私の思う綺麗なものを撮りたいよ、半分くらいずつの冗談と本気で言ったら、不二くんは嬉しそうにわらって勿論、と頷いた。
半透明の空の向こう側に、春も夏も、もうすぐそこまできている。




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