歌仙へ

 元気にしていますか。この手紙を呼んでいる頃、あなたは私にむちゃくちゃ怒っているでしょうね。なんちゃって。いやまあ、ほんと、怒るだろうけど。
 急なことでびっくりさせてごめんなさい。もしかしたら歌仙のことだからうすうす勘づいてたのかもしれませんが、それでもひどいことしてる自覚はあるので、やっぱりごめんなさい。本当はもっと早く話すつもりだったんだけど、うまく言えなくて。最後まで手際の悪い主で、雅じゃなかったね。

 さて、この度は説明の通り、私は審神者の職務を降ります。
 私は元から審神者の仕事なんかやりたくありませんでした。歴史を守ることにも日本史にも未来の平和にもあんまり興味はなかったし。気乗りしなかったっていうかむしろ嫌でした。受動的だったっていうか、ただ目の前に用意された人生を生きてきただけ。たまたまそれで何とかなってただけ。歌仙には散々言ったけど私は家業として審神者の職務を継がなきゃいけない身分だったから、とりあえず継いだって感じでした。
 審神者になることだけが決まってたから将来の夢とかもなかったし、だから案の定、「審神者になる」の後にすごく困りました。わかってたよねきっと。私、業績悪かったし。審神者としてどうありたいとかどういう審神者になりたいとか、歴史修正がどうこうとか、もっと言うと……ごめん。これはすごくごめん。どの刀との出会いも、ちっとも想像も期待もしてませんでした。

 私は「審神者になりたくて審神者になった人」をとても羨ましいと思ってたし、そういう人たちには根本的に叶わないと思ってました。多分それは歌仙も感じてた劣等だっただろうし、だから励ましてくれたことも、今更言うけどありがたかったです。すごく。嬉しかったの本当は。
 そして同時にとても惨めでした。歌仙は私を誇ってくれたのに、歌仙が誇ってくれた私を私が誇れないことを、とても恥じたしとても情けないと思った。歌仙の、あなたの存在が、私には大きすぎました。歌仙が私を称えてくれたことが、私と出会ってくれたことが、私を突き動かしてくれました。自分の仕事も日本の未来にも興味なんかなかったけど、ただあなたとの出会いが、それだけは、私の唯一無二になりました。

 審神者の仕事なんかどうでもよかったし別にやりたいことではなかった、けど、でも、あなたと会えました。審神者だったから。私が。他の何万何千の審神者の元にいる歌仙ではなくて、私のあなたに会うことができました。この世界に私の、『の歌仙兼定』というひとつの命が生まれたことだけは、私の審神者としての最初で最後の功績と言えるかもしれません。歌仙と居られるなら審神者続けてもいいかなってようやく思えていたし、あなたは私の証そのものですらありました。だから。

 だから、手紙を書きます。
 「審神者が死ぬ・またはその職務を降りる時、所有刀剣も魂を本体に還すことが基本」と服務規定にはありましたが、審神者がその刀剣の所有権限を他者に譲渡すること自体は可能とのことでした。手続きはむちゃくちゃ時間がかかったしかなり混み合ったけど、つまり、それを望む審神者がそれだけ多いってことなんでしょう。
 むりもない、と思います。私だって、私が引退するくらいで歌仙をころしたくはない。あなたは嘆いたり寂しがったりして置いていくことを恨むかもしれませんが、私は私が審神者じゃなくなってもあなたには存在していてほしいと思いました。つらい気持ちにさせてごめんなさい。新しい主になる方はそりゃもう美人で優しくて凛とした素敵な女性なので、歌仙も安心して仕えられると思います。しっかり励んでください。

 最後にせいぜい強がるとすれば、もう会えない私を思ってたまに詩でも詠んでください。離れていても聴こえるって思えるから。たぶんだけど絶対。私とあなたの関係だから、きっとすごくセンシティブでロマンチックな言葉になる気がします。期待しています。

 それじゃ、今までありがとう。
 愛していました。私の歌仙兼定。


***


「っ、ふざけるな」


 渡されたその手紙を読み終えた時、まず口から零れたのは静かな怒りだった。自分が出した声のはずなのにそれは音にしてみたら想像の三乗くらい怒気に震えていて、我ながらおそろしい声が出るものだと他人事のように感心すらした。ふざけるな、人の気も知らないで。あの娘はいつもそうだ。


「僕の前の主はとても勝手でね、困ったものだよ」
「でもそういうところが好きなんでしょう」
「はは、お見通しというわけかい」


 やれやれという風に主が笑った。だったんでしょう、などという無粋な言い回しはしないところが非常に好印象だし、僕に気を遣っているのだということもよくわかった。
 ていねいな人だ、と思う。たいして交友関係のあったわけでもない他の審神者の刀剣をわざわざ受け入れるのだから、おそらく精神的にも落ち着いているんだろう。年齢も前の主よりは些か上かと思われた。前の主が…あの娘が、が信用して僕を託すほどの人物だ。この人とならばうまくやれるだろうと思えた。他でもないの選んだものだ、僕も身を預け心を明け渡すことができるだろう。なんのためらいもなくそう思えるほど。

 がんだったという。の引退の理由。それもすべてからではなく今しがた主から聞いたばかりの話だから、僕自身もまだうまく受け止めきれてはいないが。
 のそれは胃のがんで、早期発見だから次のステージに至るまでは進行してはいないのだと。だけれど審神者という職業者は忙しい人が多くも例外ではなかったために、体のことを最優先に考えるならば、当然、仕事は引退して病院で治療に専念することとなるのは道理だった。治らない病気ではない。2200年代の医療ならば、がんというのはもはや治る病なのだ。ただ、やはり簡単なものでもない、ということだった。

 彼女の引退と所有刀剣の受け渡しの処置はそういうわけでによって秘密裏に遂行され、僕や他の刀剣たちの意思はほとんど介入されないままで進んだ。僕以外の大半のものは静かに刀解の儀を施され魂をその本座に還し、残った数名はの選んだ引き渡し相手にそれぞれに譲渡され、そうして僕はこの新たな本丸・新たな主のもとに帰属することとなった。
 がどれくらいの期間をかけて準備をしていたかはわからない、だが僕がの引退と自身の異動を知らされてから今日正式に此処へ配属されるまでは、ほんの二週間程度だった。そして僕はその手続きのさ中も、ただの今まで、が職務を退く理由を知らされなかった。「引退」という特殊な言葉遣いの中で手続きをされてきたので、ただ事ではないのだろうと予期していたばかりで。


「返事を書きますか?」
「えっ」


 「いいのかい」…と反射的に返したが、あまりにも自分がそれを待ちわびていたかのような言い方になったことを即座に省みた。主に所有された手前、未練がましく振る舞うのは無礼以外の何でもなかった。


「いや、すまない。非礼を詫びよう」
「かまいませんよ」


 主は頭を下げる僕をゆるやかに制し、座卓に腰を下ろしたままで「まあ、足でも崩しなさい」と眉を下げた。
 一目で良いものだとわかる湯呑を持ち上げてはふうふうとそれに息を吹きかける仕草が、たおやかな外見とは裏腹にかわいらしくて、張り詰めていた自身の心が少しだけやわらぐのがわかる。僕のこの新たな主たる人はじつに優美で、それが今の僕には明らかなる救いなのだった。たとえばこの人がもっと幼かったり傲慢だったり爛漫だったりしたら、とても僕は耐えられなかっただろう。きっと思い出してしまう。

 庭ではチチ、と声を上げて雀が踊り、晩春とも初夏ともとれる陽気をこれでもかと演出していた。
 「もう熱いお茶の季節ではありませんでしたね」主が苦笑いを零す。きちんと身に付けられた袷の着物もたしかにもうじき暑くなる頃合いだろう。すべりゆく暦の上で、季節はぬくもりへ移ろってゆく。僕は出された湯呑の水面を眺めながら、あの娘の手の温度を思い出そうとしていた。熱くは、なかったはずだ。そりゃあそうだろう。病気だったのだから。ほんの少し前の記憶すらどんどん思い出になってゆく感覚がして、その冷たさにぞっとしそうになる。


「歌仙」


 改めて主が僕を呼んだ。
 僕はこれから何度もこの声に呼ばれ、そのたび心を立て直すのだろう。この人に呼ばれる感触は悪いものではなかった。滞留しそうになる僕の感情を、主はそっと呼び戻す。


「いつでもかまいませんから、思いついたら教えてくださいね。書簡にして送りましょう」
「できるのかい。所有権限の書き換えられた刀剣が前の主に手紙とは言え接触しては、服務規定に障りはしないだろうか。この手紙だって、まったくこれほど明け透けに文句ばかり書いて…」
「ふふ」


 素直な方ですね、と、主は目を細めて僕の手元の手紙を見遣った。
 の癖のある丸い文字は雅には程遠く、よそに出すのは恥ずかしいから習字の練習でもしたらどうかとあれほど言ったのに、ただの一度も修練されることはなかったのだった。政府上部に送付する文書は全て機械で印刷したものだったから良かったが、こうして余所の本丸の審神者などに送りつけるにはやはりの手書きでは不格好極まりない。もう見ることはないのだろうけれど。


「もう何度か彼女とやりとりする手続きがありますから。あまり長いと検閲で弾かれるでしょうが、一言二言くらいなら、まあいいでしょう」
「…ありがとう、恩に着るよ。本当に」
「いいんですよそのくらい。私にできることなら」


 私の大事な家臣のためですからねと続けて主はいたずらっぽく笑って見せる。とはまるで似ていないのに、妙にセンシティブになっているらしい僕にはそれがすごく眩しく見えて、心臓の裏がつきんとかじかんだ。


さんと直接お会いしたのは一度きりでしたが、あなたをとても気にかけておいででした。良い関係だったんでしょう。素敵な主人を持ちましたね」
「…元、主さ。そうだろう?主」
「ふふ、そうでした。そうですね」


 わざとらしく肩をすくめて笑って見せる僕は我ながら滑稽だったろうと思う。けれど今はそうすることしかできなかった。主はそういう僕をすべて見とおして、そうして同じように大げさに笑ってくれるから、僕はますます心臓がじんわりする。
 この拡がる温度が熱なのか冷たさなのかもわからないほどに僕の感情は今忙しくて、せわしなくて、それでいてどうにも頑なだった。この小さな二律背反をおそらく僕はこれからずっと持ち続けることになるのだろう。これからどれほど長く主と共に生きたとしても、この本丸の新たな仲間たちと日々を過ごしたとしても。ふとした瞬間に、きっと憂いを灯しては熱いほどかじかむだろう。


「ねえ、主。僕の話を聞いてくれないか」


 客人用の茶器にゆっくりと唇をつけてから観念したようにそう言うと、主は嬉しそうに「もちろんです」と笑ってくれる。「お菓子も食べてくださいね。私の気に入りなんです」これまた見事な皿にちょこんと乗せられたカステラをご丁寧に勧めてくれながら。


「あの子は、ほんとうにわがままで甘ったれで食べ物の好き嫌いが多くて寝起きが悪くて業務成績も良くなくて」
「ええ」
「詩も茶も花も書も嗜まない、着つけだって自分じゃできやしない、泣き虫で怖がりでどうしようもない娘だったんだ」
「そうでしたか」
「だけど」


 だけど。あの子は今、たったひとりで自身の運命と向き合っているんだ。鎧も武器も何も持たずに体ひとつで。定められた家業からも逃げ続けていたあの小さな女の子が、初めて何かと、己と、相対しようとしているんだ。そうだろう、主。

 ほとんど縋るような、祈るような言い方になった。主は少し言葉を探すようなそぶりを見せて、そうして丁寧に選び取ったその言葉ひとつひとつを僕にくれる。僕たちは会ったばかりだというのになんとも慈愛に満ちた言い方で。僕だけじゃなくてここにいないにも、主の穏やかさは降り注ぐ。


「月並みかもしれませんが、歌仙」
「ああ」
「独りでは、ないと思いませんか。あなたがいちばんよくおわかりでしょう?それにあなただって」
「………ああ。そのとおりさ」


 そのとおりだと思った。全くもって。

 僕はとはもう永遠に会えないし、だってそうだ。もまた、僕には永遠に会うことができない。僕たちはもう物理的に乖離してしまった。それなのに、僕は今せつない気持ちは抱きこそすれ、「哀しいわけじゃない」のだった。

 の体に棲む病が一刻も早く消え去ればいい、を苦しめる何もかもが無くなってしまえばいいと勿論願う。だけれど、その悩める体の傍に僕がいなければならないだとか、そういったことは決して思わなかった。
 僕がどれほどを介抱したがったとしても、おそらくはそれを突っぱねるだろう。は駆け寄る僕を良しとしないだろう。だから…だからこうして僕を引き剥がし、そうしてひとりになった上で僕と過ごした日々の記憶を持って、生きようとしているのだろうとわかったからだ。

 …どうかしてる、本当に。本当にふざけているしわがままだしどうしようもない娘だ。だけど、それがだ。僕はたらしめているその決意にはどう足掻いても触れることはできない。純潔なのだ、あの娘は。
 誰にも、病にも穢されることのない清廉な魂。それが代々あの娘の家督に伝わるものだとするならば、なるほど継がねばならないだろう。さだめも憂いもすべてがであり、そして彼女に励起された彼女の僕は、彼女のその魂をひどく愛した。哀しさも消えるほど。肉体の離別など瑣末なことだと思えるほどに、僕は心の中に強くを持っている。もまた、僕を抱いている。そばにいなくても大丈夫なように、離れていても生きていけるように。僕がの手を離れて主に継がれたということは、その証そのものだと思った。


「…返事を」
「はい」
「託しても?」
「ええ、必ずお届けしましょう」


 庭のずっと向こう、遠くの空から、夏の匂いがしていた。
 新しい季節へ向かって僕は生きてゆく。主と。そしてもう二度と会えぬと。


「きみの人生の一部になれて良かったと、伝えてくれないか。一生のうち何年かでも」





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