「ありがとうございましたー」


いきつけのスーパーのおばちゃんの声を背に、並んで自動ドアをくぐる。ひんやりしたクーラーの冷気から一転、蒸し暑い熱気が襲ってきておもわず顔をしかめた。「暑っ」「もう夏やしなあ」「アイス溶けちゃう、はやく帰ろ」がさがさと揺れるビニール袋は大きいのが彼の左手に、もうひとつ小さい方が私の右手に。そうして彼は何気ないふりをして車道側を歩いてくれる。彼のそんなところがたまらなく好きなのだ。本当は自分が二つとも袋を持つと言ってくれたのだけど、なにぶん私の部屋の冷蔵庫に収まる食材たちなのだ、そこまでさせてしまっては申し訳ない。その代わりと言ってはなんだけれど、空いた手と手を繋いで帰宅するという提案でおあいこにしてもらった。

ごつごつして大きな彼の右手は、高校時代は今よりもっとマメだらけだったらしい。インターハイに出場して上位に食い込むほどの全国でも名高いテニス部のレギュラーだったというのだからそうなのだろう。もっとも大学に進学して医学に没頭するようになってからは、幾分かその掌のマメやささくれは減ったらしいけれど。今でも大学のテニス部の活動には参加しているみたいだけど流石に昔ほどテニス一筋というわけにはいかないらしい。たしかに、医学部の3年生ともなってしまえば自由な時間なんて減ってゆく一方だろう。こうして互いの家に入り浸ってデートしたりご飯を作ったりする時間だって多いものではない。私は彼と学部が違うから学年が上がるにつれて授業は減っていくけれど、そのぶん空いた時間をバイトと習い事なんかにつぎ込んでしまえば大差はなかった。ぼちぼち就職活動も始めてしまわなければならないと思うと一気に気が滅入るし、ようは大学生って暇そうに見えて案外忙しいのだ。時間の使い方の問題だろうけれど。

こうして彼と並んで歩くのが普通になって、3回目の夏だった。最初の夏にはじめて手を繋いで、「恋人同士」になった。キスもしたし、デートもたくさんして、喧嘩の回数も多かったけれど、そのたびに同じ大学の白石くんが間に入ってくれた。なかなか彼女を作らない白石くんを茶化したりもして、お互い無事に進級して、次の夏には二人で旅行へ行った。クリスマスも一緒にケーキを食べて、年が明けてすぐに初詣にも行った。少しずつ忙しくなる互いの生活ですれ違うこともあったけれど、ようやく今年の夏がきて、今、当たり前みたいに隣に彼がいる。ちらりとその顔を盗み見ればダークブラウンの髪が汗で額に張り付いていて、こちらの視線に気づいて「ん?」なんて言う。なんだか不思議な感覚だけど、私たちって実はものすごく奇跡みたいな確立で恋をし合っているんじゃないかなあなんて思うのだ。


「髪、伸びたよね」
「あー、せやなあ。そろそろユウジに切ってもらわな」
「ユウジくんって美容室で見習いやってるユウジくん?」
「せや!あいつ昔からめっちゃ手先器用やねん」


面白そうに中学時代のユウジくんとの話をはじめる彼の横を、小学生くらいの男の子が二人で競うように走り抜けてゆく。その背中をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと目を細めて彼の話に耳を傾ける。顧問の先生にいたずらをして叱られたこと、後輩にちょっかいを出して怒られたこと、散々騒いでマネージャーの子に二人で正座させられたこと。「思えばあいつとはアホなことしかやってへん・・・!」と今しがた気がついたように真顔でそういうのがおかしくって、くすっと笑みがこぼれた。きっと彼の中ではつい先日のことのように色褪せないまま残っている出来事なのだろう。アルバムをめくるみたいに次から次へと出てくる話を聞きながら、彼の思い出をちょっとずつわけてもらっているような、そんな気がした。

横断歩道の赤信号を見つけて足を止めれば、真上からじりじり照りつける日差しがいっそう暑く感じられた。風のない夏の空気が生ぬるく肌を伝ってゆく。白と黒のしましま模様を挟んで反対の歩道にはベビーカーで大泣きしている赤ん坊がいて、困ったような、でも幸せそうな顔で笑い合う若い夫婦の姿があった。青緑にかわった信号を合図に、私は彼に手をひかれて再び歩き出す。ベビーカーの夫婦とすれ違う時に奥さんの方と目が合って、なんだか私は心があたたまった。めいいっぱいの声を張り上げて泣き叫ぶ赤ん坊の声が背中越しにいつまでも聞こえてきて、私は彼と顔を見合わせて笑った。何故だかわからないけれど幸せだった。


「なんか、ええなあ。ああいうの」
「うん、いいね」


がさり、私の手のビニール袋の中でトマトが揺れた。みずみずしく熟れたそれは私の好物で、冷蔵庫でつめたく冷やしてから彩り豊かなサラダにして食卓に飾るのがすごく楽しみだった。それを一緒に食べてくれるのは他でもない、彼だ。いただきますをして、テレビを眺めながらごはんを食べて、ごちそうさまと手を合わす。そのあとデザートを食べたりなんかもする、そんな普通のことが彼と一緒だとたまらなく嬉しく思えるから不思議だ。仲良しの友達と一緒に食べるランチやケーキも大好きなのだけど、それとは違った色が彼との時間にはたしかにあるのだ。日常の隙間に色付く幸せが、ちゃんとある。そんな時間をこれからずっと二人で歩いてゆけたら、と思うのは私だけなのだろうか。さっきすれ違った夫婦のようにやわらかな幸福を築いてゆきたい、と。


「なあ」


普段と変わらないトーンでぼんやりと彼が言う。「うん?」同じくぼんやりとそれに返事をしながら、目線は青々とした空へ向いていた。空色、とでもいうべき鮮やかさだった。目線を落として辺りを見れば、高く咲いた花壇の向日葵や打ち水のあとの濡れたアスファルト、夏の匂いを感じさせる住宅地は普段と変わらない。背の高いマンションの日陰を歩きながら、ふいに彼がぼそりなにかと呟いた。それが「今晩何にするん?」とでも言うような平凡さで吐き出されたので、あやうく聞き逃してしまうところだった。


「結婚せーへん?」


遠くでセミが鳴いたような気がした。住宅地の静けさに、私と彼の呼吸しか存在しないような感覚に眩暈を覚えて、思わず足を止めてしまった。繋いだままだった彼の右手に力が入っていることにようやく気がついて、ああこの人も私と同じだったのだとわかった。したいよ、結婚、私も。それだけで十分だった。何故だかわからないけれど溢れそうな涙を奥歯で噛みしめて、絡めた指先に力がこもった。なんだかんだ言って私たちはまだ大学生で、それに彼には医者になるという大きな目標がある。冷静に考えたら結婚なんてまだまだ先の話なのだけど、それでも、彼の隣を一生歩きたいと思ったのだ。子供な私たちの、精いっぱいの背伸びだった。


「……じゃあとりあえず、結婚を前提に同棲からということで」
「…おう、ほんならええ物件探さなあかんな」
「ふふ、うん」
「うーわ、なんやめっちゃ緊張したわ……!」
「ていうか、なんでこのタイミングなの?びっくりするじゃん」
「やってめっちゃ結婚したいと思ってん、今。あ、別に今思いついたわけちゃうくて前から思っててんけど、」
「うん」
「さっきのベビーカー押しとる二人見たらええなって…あああめっちゃ恥ずい!ちょ、顔見んとって」
「あははは!」


早口にまくしたてる彼に手をひかれて、日陰の道を歩き出した。少し赤くなった彼の頬をみて、自分の体温も上昇してゆくような感じがした。早く帰って、すっかり溶けただろうアイスを冷凍庫へしまって、それから二人で笑い合おう。晩ごはんの支度をして、彼は雑誌をめくったりして、準備ができたら一緒にいただきますをする。そんな日常を彼とずっと歩いてゆけるのかなあと思うと、どうがんばっても緩んだ頬を元に戻すことは難しかった。心底愛おしそうな顔で私を見る彼が私も同じくらい愛しくって、ちょっとだけ恥ずかしくなってうつむいて「すきだよ」と口パクで唱えてみた。彼は魔法でも使えるのだろうか、私の口元なんて見ずに「あー…めっちゃ好き」とぶっきらぼうに呟いた。




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