こんな時、僕は自分の小ささを思い知る。人間なんてほんとうはみんな矮小で小さなものかもしれないが、そのなかでも僕はきわめて小さいものの部類に入るだろう。卑屈になっているわけではなく、自分の中にある確固たるものさしで僕という人間を測った結果、たしかにそう思う。

たとえばそれが医者や弁護士なら、同じ人間でも「自分以外の誰か」を救うことができるだろう。音楽家や芸術家なら、類い稀なる才能で他人の心を癒すことができるだろう。残念ながら僕はそんな高尚な人間でもなければ社会的に自立した大人でもなく、ただ一人の高校生男子に過ぎなかった。そういうわけで、僕には、どうすることもできないことがたくさんある。


「私もう長くないらしいよ、テツヤくん」
「そ、んな、」
「信じられないよね。私も信じられない。でも、わかるの。親や先生の態度でわかっちゃったの」


さんという人は僕のクラスメイトだった。本が好きで、よく図書室に足を運んでいた。日の当たる窓際の席で読書にいそしむ姿を、僕はずっと図書委員として貸出カウンターの中から眺めていた。そうして図書室で僕とよく顔を合わせていたからか、僕のことを比較的目にとめてくれる存在でもあった。図書室で鉢合わせばなんとなく一言二言ことばを交わすようになり、それが教室でも挨拶をするようになって、最初の席替えでは運命的に僕は彼女の斜め後ろの席になり、そうして本の貸し借りをするようになった。互いのことを、たくさん知るようになった。僕は彼女のことをもっと知りたい、近付きたいと思うようになり、彼女も同じように僕に心を明け渡してくれた。さんは自分のことをなるべくたくさん僕に教えてくれた。良いことも、良くないことも、こんな風にほとんど隠さずに。

さんは先月から入院している。あまり心臓が強くはなく、ずっと具合が良くなかったということは聞いていた。僕はさんにその陰がちらつくたびぞっとした気分になったが、僕ですらそうなのだから本人はもっと絶望に近い気持ちなのだろうと思っていた。僕はあまり悲しいことを信じたくなかったから、半ば拒否するような気持ちで彼女の生命の糸の細さについて聞いていた。けれど、さんはそれときちんと向き合っていたのだと思う。自らのもつ命の輝きがぼんやりと薄らいでいることを、受け入れようと戦っているのだった。彼女のところに神様はいないことを、彼女自身は悟っていたのかもしれない。


「…そうですか」
「いつ死んでもおかしくはないと思う。残念だね」
「ええ、残念です」
「仕方がない。私はそういう寿命に生まれちゃったみたいだ」


病室のベッドサイドに飾られた花を眺める視線はどこまでも穏やかで、彼女の覚悟は堅いのだとわかる。運命の神様から手を離され、人生の中でもっとも大きなうねりに投げ出された人だとはとても思えなかった。僕はまた自分の小ささを思い知る。僕には彼女を救う技術も頭の良さもなく、心を癒すことばすらも持ち合わせていなかった。ただ花を持って見舞いに来ることだけが僕に許された「彼女のため」だったのだ。


「テツヤくん、死んだら…私が死んだら、埋めてくれる?」
「え?」
「夢。そんな夢を見てよ」


彼女の赤い唇が、いたずらっぽく弾んだ。僕は一瞬の間を置いてからその言葉にはっとして、すぐに彼女が好んで読んでいた作家の名前が頭に浮かんだ。…夢だ。一つめの夢の話が、さんはすきだった。

「…本当に好きなんですね」「好きだよ」なんのためらいもなくさんが笑うので、あまりに健康的でどきりとした。好きという言葉は、なにが、とわかっていても僕たち高校生の身の丈には少し似合わなくてくすぐったさがする。好きだ、と、頭の中で一度反芻してみた。


「わかりました。…君が死んだら、埋めます。真珠貝で穴を掘って、天から落ちてくる星の破片を墓標に置いて。そうしてその傍で僕は君をずっと待っています。また逢えるまで、ずっと」
「…よく覚えてるね。驚いた」
「僕も好きですから」
「そっか」
「はい」
「私も、すきだよ」
「僕もです」


舌のうえを転がる言葉の甘さに、どうしようもなく悲しさが溢れた。こんなに溌剌としているのにそれでもさんはもう行くという。いつでも、さっさと行ってしまうという。僕のところにさんがいたという痛みにも似た証拠だけはちゃんと残して。どうやら神様は僕にもいないらしい。僕は彼女を救えないし、彼女を失う運命にあるのだから。


「百年だよ。百年したら必ず逢いに来るから。ちゃんと待っていてね」
「はい。約束します。必ずさんのことを待っています」


だからどうか、君も必ず僕の所へ逢いに来て。そうやって互いに誓いをたてて、彼女は眼を閉じた。まるで泣いているみたいだった。



*



百合の花が咲いたのは、それが思い出になった頃だった。真白い花びらをした百合がただ一輪、嘘みたいに綺麗に咲いた。やわらに漂う香りが僕の心臓のずっと奥のほうまで届いてきて、切ないものがこみ上げてきた。ふと見上げると明け方の空に薄れゆく星がひとつ大きく煌めいていて、そこから朝の露がぽたりと百合のうえに零れ落ちた。彼女が愛した本とまるで同じその情景に、僕は夢を見ている気分になる。ああそうか、と僕は思った。彼女は本当にすきだったのだ。僕は露に濡れた白い百合にそっと口づけて、小さく囁いた。それは百年目の朝だった。

さん、また逢えましたね」僕はあなたをずっと待っていました。ただ、好きだから。



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