幸村くんの長い指が手持無沙汰にぺらぺらページをめくり、伏せられた睫毛は影をつくっていた。相変わらず何をしていても絵になるひとだなあと思う。多分大口を開けて欠伸をしたってその顔の綺麗さが崩れることはないだろう。しょうもないことを考えながら、書きかけのノートにシャープペンを走らせた。
黄昏時の図書室の一角には私と幸村くんしかいない。私は入学してからずっとこの図書室を好んで利用しているけれど、幸村くんが出入りするようになったのはつい最近だ。夏休みが終わって部活を引退してからというもの、幸村くんは私の向かい側へ座ることが多くなった。柳くんに勧められたという文庫本を読んでいたり、ときどき宿題をしていたり、今見たいに窓辺をぼうっと眺めていたり。はじめのうち、私は何となく気を遣ってしまっていたのだけど、「邪魔だったかな」と言われてしまえばどいてくれと言う術はない。もちろん本当にどいてほしいわけではなくて私自身どうしていいかわからなかっただけなのだけれど、今思うとその小首を傾げた動作は確信犯の一つだったのかもしれない、なんて思う。

今ではすっかり目の前に幸村くんがいることに慣れてしまって、調べ物に没頭してしまえばこんな風に閉館ぎりぎりの時間になってしまうこともある。下校時刻を知らせるチャイムの音が鳴るまで読書や宿題に精を出す日などには、チャイムに気付いてはっとした私に向かって「おつかれさま、帰ろうか」とごくごく自然にそう言ってくれるので、いつのまにか駅までの道のりを一緒に帰るのが習慣になってしまっていた。


「…今日はもう終わりかい?」
「え、」
「ふふ、ずいぶんぼーっとしてたから」
「あ、えーと」


あなたのことを考えていました、なんて言えるわけがない。ぱらぱらと資料をめくっていた筈の私の手はいつの間にか止まっていた。壁際の大きな時計を見れば下校時間までそんなに長くはない。いったん途切れた集中の糸をもう一度紡ぐのは難しいし、今日はこの本を借りて残りの課題は家でやるべきだろう。そう思って曖昧に「そうだね、帰ろうかな」なんてぎこちなく笑みを返す。幸村くんも読みかけの本を奥の棚へ返すべく席を立ったので、私も今しがた開いていた本を借りる手続きをしようと足早にカウンターへ向かえば、司書の先生が慣れた手つきで貸出の手続きを済ませてくれて「気をつけてね」と言ってくれた。席へ戻ると、幸村君は既に帰り支度を済ませて窓の外を見つめている。大きな窓からはじわじわと橙に染まり出した空の色が入り込んできて、私にはそこだけが幻想の世界のように思えた。


「幸村くん」
「ああ、借りて来た?」
「うん、待たせてごめん」


オレンジ色を浴びる幸村くんの髪がふわりと揺れる。なんとなく幸村くんが眺めていた先を目線で追えば、きちんと手入れの行き届いた花壇がある。あれはたしか美化委員が当番で面倒を見ている花だ。名前は、たしか。


「芙蓉だっけ」
「そう。良く知ってるね」
「演劇部の友達に聞いたの。『夏芙蓉』って舞台があるんだって」
「そうなんだ」
「うん。綺麗な話なんだろうね」


鮮やかな桃色の花弁を纏った視線の先の花々は、朝に開花する時は真っ白で、時間がたつにつれて桃色に染まり、日が沈み夜が来ると萎んでゆく。私は夏休みの朝早くから夕方まで図書館へ訪れる期間が何度かあったので、それに気がついたのだ。きっと幸村くんはもっと詳しく知っているのだろうけど、残念ながら私には花や植物に関する知識がそう多く備わっていない。ふーん、芙蓉。綺麗な花があるものだ。その程度の認識だった。

「忘れ物、ない?」「大丈夫」「本当?きみは忘れっぽいから」「失礼だな、大丈夫だってば」座っていた席を何度も確かめてから、帰り支度を済ませた私と幸村くんは図書館を後にした。歩くたびにきゅっきゅと音の鳴るリノリウムの廊下を、傾きかけた日がオレンジのグラデーションでいっぱいにしてゆく。他愛もない話をしながら、幸村くんは急に思い出したみたいに口を開いた。悪戯っぽい笑みを顔に浮かべている。


「芙蓉の花言葉を知ってる?」
「さあ?わからない」
「後で調べてみなよ」
「さっき言ってよ、すぐ見つかったのに」
「ああ、そうだね」
「わざと?」
「どうかなあ。でも、」
「ん?」
「君によく似合うよ」


そう言って幸村くんは楽しそうに笑うので、おそらくわざと図書室を出てから言ったのだろう。結局うやむやになって話は違う方向へ逸れてしまったけれど、家に帰ってすぐにインターネットで芙蓉の花言葉を検索した私は、赤い顔をして幸村くんに真相を問いただすことになる。




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