「あ」


ソレが手から離れてしまったのと、殆ど同時だったと思う。1秒もしないでがしゃんと大げさな音で床にたたきつけられたガラスのコップは、きらきらと反射して粉々に割れてしまった。驚きとショックに半分ずつ支配されて、ぴくりとも動けない。あーあ、お気に入りだったのに。


「…やっちゃった」
「なに今ん音、どないし………アホやな」
「ひどい!罵倒が早すぎる!」
「はあ、」


ドアの隙間から顔をのぞかせた彼は、情けない顔をして振り返る私と床に散らばったガラスの破片を交互に眺めて、ため息をひとつ。理解力がとっても高いところは素直に尊敬するけれど、ひどく呆れた表情でストレートにアホなんて言われるとちょっと凹む。わかっていますよ、アホだってことくらい。大事なグラスを食器棚の手前に置いたりしたわたしがいけなかったのだ。奥にあるマグカップを取ろうとして、そのグラスを避けずに棚に手をつっこんだ私は、やっぱりアホなんだろう。半泣きくらいの気持ちで「ああ~…」なんてへなへなした声をあげていると、勝手知ったるなんとやらで彼が箒と塵取りを持ってきてグラスの残骸を掃除し始める。ぺたぺたと、裸足で。


「ちょ、ちょっと待って!足あし!怪我しちゃうから!」
「ああ、動くなや」
「いや私じゃなくて!光が怪我しちゃうでしょって!」
「せえへんわ、おまえやあるまいし」
「い、言い返せない…!」


ガラスを踏まないように器用に避けながらてきぱきと掃除する姿に、成す術もなく。「私がやるって」と手を差し出して箒と塵取りを渡すように催促してみても効果はないようで、結局ほとんどの片付けを彼が済ませてしまった。私がおろおろとしている間に、粉々のグラスをきちんと新聞紙でくるんで、箒も塵取りも元あった場所にしまって。


「…ありがとう」
「手とか切ってへんか」
「うん、大丈夫」
「いつまで泣きそうな顔してんねん」
「だって、」
「ぶっさいく」
「ぎゃー!ひどい!しかも痛っ!」


ちょっとだけ小馬鹿にしたみたいに鼻で笑いながらそう言って、ぱちん、と私のおでこにでこぴんをひとつ。小さな衝撃が額に奔って思わずそこを両手で押さえた。いたい、ともう一度訴えると、「せやったら大人しくしとけ」とだけ言って、またしても慣れた手つきで今度は戸棚を漁り始める。何だろう、とその背中を瞬きしながら見つめて、ようやく意味がわかってはっとした。なんだかんだ言ってこういう風に私を甘やかすから、ずるい。


「私が淹れるのに、コーヒー」
「またなんや割って片付けさせられるん嫌やし」
「片付けも私がやるって言ったじゃん」
「怪我したら手当すんのめんどいやろ」
「しなくていいよ」
「アホ」
「また言う!」
「…わかっとるくせにいちいち突っかかってくんなや、アホ」


そうやって何度も何度も憎まれ口を叩くくせにごく自然な動作で優しくするところが、すきだなあ。じんわりそう思って、頬が火照った。彼の言うようにアホな私が怪我をしないようにって、何も言わずに先回りしてしまうところが、とてつもなくすきなんだ。
コーヒーメーカーにミネラルウォーターを注いで、コーヒー粉を手早くフィルターにセットして、スイッチオン。ここまで準備されてしまっては本当に私は大人しくしているより他なくなって、我が物顔でコーヒーを淹れてくれる様子を黙って眺めるしかない。マグカップを片手でふたつ取り出して、甘党な私のためにお砂糖とミルクもきちんと準備してくれて。何気ない仕草が急に嬉しくなって、にやける口元を隠しもせずに、後ろからその背中にぎゅうと抱きついた。

「なんやねん、邪魔や」案の定、私の顔なんて見向きもしてくれないけれど。緑の黒髪の隙間にちらりと覗く、少し赤くなった彼の耳たぶには気付かないふりをしてあげよう。




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