「ひっ…!」


聞き間違いかな、そう思って無視をしたけれどどうやらそうではないらしい。事実、私の彼は一人では太刀打ちできない危機に面しているらしかった。


「千里、どうし、」
「あああああああああ!あかん!いかん!いけん!!助けてくれんね!はよ!」


上擦った声で、今にも泣きそうな表情で。キッチンからばたばたと姿を現した彼はそのでかい図体には似つかわぬ情けなさでこちらに突進してきて、そのままぎゅうっと私に縋りついてきた。あまりの勢いに対応できず、後ろ手をついてなんとか身体を支える。読んでいた雑誌は彼と私の身体の間でくしゃくしゃになってしまった。文句の一つでも言おうかと思ったけれど、彼の焦りように並々ならぬものを感じて黙りこむ。というより、彼の腕の力がぎしぎしと私を締め付ける苦しさで物も言えない、のほうが正しい。必死に手を伸ばして彼の背中をばしばしと叩いた。


「千里さん、ちょ、ほんと、苦しい…!」
「せからしか!はやく何とかしなっせ!一生のお願いばい!」


ようやく解放されたかと思えば今度は両肩を痛いくらいにがっしり掴まれて、「助けないとオマエ殺すぞ」くらいの勢いで凄まれて。ますます黙りたくなった。なにと戦っているのか知らないが、助けを求める相手に向かってウルサイはないんじゃないだろうか、ウルサイは。彼の自由さと日本語の通じなさは今に始まったことではないけれど。


「な、なに、どうしたの。落ち着いてよ」
「…出たったい」
「なにが」
「奴が」
「…G?」
「奴はそぎゃんもんじゃなか!もっと凶悪でタチが悪かよ!」
「あー………」


なんとなく、察しました、ハイ。と呆れ顔で言うとものすごく不機嫌そうな顔で「なんねそん反応!」と怒鳴られてしまう。普段ぼんやりと大人しい彼がこんな風に声を荒げるなんて、よっぽど大喧嘩した時か、こんな時くらいしかない。ばりばりのヤンキー時代は毎日こうだったのかもしれないけど、なんて他人の黒歴史に思いを馳せてみたりして。熊本にいて荒れていた頃の彼のことは風の噂程度にしか聞いたことがないから想像の域を脱しないのだけれど、それでも、こんな大柄でしかも不良だった男がどうしても苦手なものが台所にいるらしいアレだなんて、一体誰が想像するだろう。私だってはじめて知った時は相当びっくりして、呆れて、大笑いしたものだ。結局はそんな情けないところのひとつも愛しいっちゃ愛しいのだけど、割愛。


「八本足さん、ね」
「そん名前聞くだけでもゾッとすったい…!いなくなってしまうけん早くどっかやってくれんね!なあ!」
「大きい?」
「俺んピアスくらい」
「…小さいね」
「大きさじゃなか!!!!」
「わかった、わかったって。私が悪かったってば」


あんまりにも必死な顔できゃんきゃん叫ぶので、押し問答もそこそこにしてキッチンへ足を向ける。自分よりずっと背の低い私の背中に隠れるようにして、それでも傍から離れない彼をなんとか宥めてやりながら。仕方がない、愛しい彼を脅かす存在ならたとえ小さな虫一匹でも私は容赦できないのだ。覚悟しやがれ、と足元の箱から2、3枚ティッシュをひっつかみながら、心の中で呟いた。




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