「馬鹿じゃないの」


彼女はこれでもかというくらい眉間に皺を寄せて俺を睨みつけた。馬鹿じゃないの、その言葉は今の俺にはこれ以上ないくらい的確だったと思う。俺も言われてすぐに自分自身を馬鹿だと思った。馬鹿だ。この上なく馬鹿だ俺は。
彼女は屋上の手すりに身体を預けて空を仰いだ。天を向いて、まるで祈るみたいに目を閉じて大きく息を吐いていた。呆れるみたいに、絶望するみたいに。俺はなんだか居たたまれなくなって、ごまかすように首筋を掻いて「俺って馬鹿だよネ」と言った。彼女はもう一度俺を見つめて、また同じように「馬鹿じゃないの」と言った。あんまり鋭い瞳でそう言うので気押されかけたけれど、そのわりに声色は弱々しく霞んでいた。彼女を傷つけてしまった。俺は本当にどうしようもないやつだと思う。神様ごめんなさい。俺は世界で一番大切にすべき女の子を、たった一言で海に突き落としました。


***


中1からずっとクラスメイトだった彼女は今でも俺と気の合う、一番仲のいい女の子だと思う。「アドレス教えて」とか「デートしようよ」とかそういう言葉を必要としない、本当に純粋な友達だった。俺は彼女のアドレスを勿論知っているし、彼女もそうだ。彼女と二人で電車に乗って出かけたこともあれば、彼女に試合を見に来てもらったこともある。よく一緒に笑いくだらない時間を過ごした。
俺は彼女に、彼女は俺に、随分気を許せる間柄だったと思う。俺が女の子にフラれた時、彼女は決まって大笑いするのだ。それから決まって、「そんなに本気でもなかったくせに」と意地悪い顔で言う。俺は彼女に相当見透かされていたのだろう。その時の女の子たちは皆、本気と言えば本気だったけれど、そうじゃないと言えばそうじゃなかった。つまり俺は恋がしたいから・彼女がほしいから女の子たちの背中を追いかけていたんだと思うし、それを彼女もまたよくわかっていたのだ。俺は本気で人を好きになったことがなかった。


「進路調査、何て書いた?」
「うーん…プロのテニス選手」
「まじか」
「って書いとけば何とかなるかと思って」
「ずる賢いね」
「ひどいなー、頭いいとか言ってよ」


彼女はうんうん唸りながら『進路調査票』と書かれたプリントの空欄を埋めるべく頭を悩ませていた。こんな一枚の紙で進路なんか決めてたまるか、と呟いた言葉はもっともだと思った。俺だって将来のことはまっさらだったし、調査票に書いたとおりになるかと言ったらそう簡単なことじゃない。とにかく適当なことを書いて後で担任に呼び出されるのを回避するためにそう書いただけのことだ。彼女はシャープペンの芯をかちかちさせながらしばらく悩んでいた。
「千石くんのお嫁さんって書いてあげようか?」ふざけた声でそう言ったら、やはりふざけた声で「愛してるわ、ダーリン!」と返された。そう言って空欄に何かを書き出したので、俺はその様子を見届けてから「俺だって愛してるよハニー!」とか何とか言ったと思う。詳しい言い回しは覚えていないけれど。たしかそれが、今年の春。

夏休みには部活が本格的に忙しくなって、あまり連絡を取らなかった。それでも彼女は全国大会を見に来てくれたし、何をどうやったのかわからないけれど亜久津まで一緒に連れてきてくれた。亜久津はそれはもうめんどくさそうな顔で「迷ってたからここまで連れてきただけだ」とか言っていてそれが本当かどうかわからなかったけれど、どうでもよかった。俺は亜久津が足を運んでくれただけでも嬉しかったし、他の部員もそうだと思う。壇くんなんかは号泣していた。結局亜久津はすぐに帰ってしまったし俺たちも勝ち進むことは出来ずに短い夏が終わってしまったけれど、彼女がフェンス越しに見守ってくれて、俺はいつも以上の力を発揮できたと思う。彼女はテニスに明るくなかったけれど見るぶんには楽しいと言ってくれて、俺たちの試合をほんとうに親身に応援してくれた。彼女が泣きそうな笑顔で「おつかれ」と言ってくれた光景は、今もきちんと俺の中に綺麗なまま残っている。


…まあつまり、だから、俺と彼女はけっこうな季節を近しいところで過ごしてきたんだということ。俺も彼女も勿論他にたくさん友達がいて、四六時中一緒に行動したとかそういうわけでは決してないのだけれど、それでも何というか彼女は特別だった。彼女にとっての俺もそうだったと思う。俺に恋人という関係の女の子がいてもそれは変わることがなくて、彼女が原因で恋人にフラれた時も何度かある。その時俺は多少なりとも傷つきはしたけれど、彼女と縁を切るとかそういう選択肢はなかったので、俺の中の天秤は間違いなく『恋人』よりも『』という存在のほうが大切だったのだ。圧倒的に。

それが、良くなかった。おそらく。おそらく俺の彼女に対する思いは無意識のうちに肥大化していったのだと思う。いつのまにか彼女は俺の中で絶対的になりすぎていた。彼女の笑顔が俺の中で次第に色めき立ち、仕草の一つ一つに愛らしさを覚えるようになり、他の女の子とは違う生き物に見えるようになった。彼女のスカートのひだが膝丈で揺れるのを目で追ってしまう自分がいるのだ。彼女の柔らかい髪に触れたいと思う。自分の中で膨らみ始めた気持ちに気づいて、俺は愕然とした。これは彼女に対する明確な裏切りだった。俺と彼女は『オトモダチ』なのだ。それ以上であってはならない。


「千石さ、うちのクラスの和田さんってどう思う?」
「和田さんって和田さん?なんでまた?」
「いや、うん、何となく」
「おっぱい大きくてかわいいよね!」
「千石に聞いた私が悪かったわ、ごめん忘れて」
「わははは!冗談だって!メンゴー」
「メンゴは古い!」


俺たちの間を吹き抜ける風はすっかり夏の色を無くしていて、次の季節を運びこもうとしていた。夕暮れを映した公園の人影はまばらで、制服を着た学生なんて俺たちしかいなかった。部活を引退した俺は暇を持て余していて、相も変わらず女の子とデートしたり、かと思えば彼女と寄り道したりとくだらない時間を過ごしていた。
ぎい、と錆ついたブランコが音を立てる。隣のブランコに腰掛ける彼女の顔は俯いていてよくわからなかったが、どこかに憂いを秘めていることだけはしっかりと把握できた。俺は何気ない振りをしておちゃらけた空気を何とか作り出そうとして、彼女もまたその空気を享受してくれた。本当は彼女の内側にはもっと大きな揺らめきがあったのだろうと思ったが、それ以上追及してはいけない気がした。彼女もそれ以降は他愛もない話ばかりで核心には触れなかった。助かった、と俺は思った。


俺と彼女は依然として均衡を保ったまま『オトモダチ』であり続けた。その曖昧な場所にいるのが一番居心地が良かったし、誰も傷つけたり傷ついたりせずに済んだから。だけどその均衡を保つのは次第に難しくなっていった。簡単な話、俺が自分で思っていたよりもずっと不器用だったから。

彼女は俺の熱を孕んだ目線に気がついてしまった。俺が彼女を目で追いかける理由を、俺が何を言わずとも感づいてしまったのだ。『好き』の二文字は宙に浮いたまま、俺と彼女は躍起になって微妙な距離を保ち続けた。というか、多分そうするしか出来なかったのだ。俺も彼女も、互いを失ってしまえば日常に戻れないのは分かっていたから。分っていた、のに。


***


「馬鹿じゃないの」


彼女はこれでもかというくらい眉間に皺を寄せて俺を睨みつけた。馬鹿じゃないの、その言葉は今の俺にはこれ以上ないくらい的確だったと思う。俺も言われてすぐに自分自身を馬鹿だと思った。馬鹿だ。この上なく馬鹿だ俺は。
彼女は屋上の手すりに身体を預けて空を仰いだ。天を向いて、まるで祈るみたいに目を閉じて大きく息を吐いていた。呆れるみたいに、絶望するみたいに。俺はなんだか居たたまれなくなって、ごまかすように首筋を掻いて「俺って馬鹿だよネ」と言った。彼女はもう一度俺を見つめて、また同じように「馬鹿じゃないの」と言った。あんまり鋭い瞳でそう言うので気押されかけたけれど、そのわりに声色は弱々しく霞んでいた。彼女を傷つけてしまった。俺は本当にどうしようもないやつだと思う。神様ごめんなさい。俺は世界で一番大切にすべき女の子を、たった一言で海に突き落としました。


「俺ね、が好き」


とうとう口にしてしまった言葉は鋭利なナイフの如く彼女の心臓をえぐった。そうして俺は彼女を突き刺してしまったことに、行動を起こしてから酷く傷ついた。後悔するのは簡単なのに、もうやり直しはきかない。もう俺と彼女は『オトモダチ』ではいられないのだ。だからと言って晴れて恋人同士になれるかと言えばそうではない。彼女は、彼女には、理由があった。


「ごめん」
「うん、俺も、ごめん。もっていうか、俺が、ごめん。今のは俺が悪かったよ」
「…そうだよ、あんた馬鹿だよ。馬鹿千石。なんで…なんでそれ言っちゃうの……」


彼女は異性を愛せない。同性にしか恋が出来ない生き物なのだ。俺はそれを頭の端っこで感づいていたのに、一番残酷な言葉で彼女をころしてしまった。彼女が同性愛者であると知っているのは俺だけだったのに。俺は彼女の唯一を知る『オトモダチ』だったのに。

どうして俺ははじめて本気で好きになる人間に彼女を選んでしまったのだろう。どうして俺は彼女に好きと言ってしまったのだろう。どうして彼女は、俺を好きになってくれないのだろう。ぐるぐるした空しさが一度に襲ってきて、俺は制服の裾をぎゅっと握りしめた。容赦なく吹き付ける風はもう冬のそれに近く、冷たさが急に身体の真ん中に沁み込んでこのまま心中でもしたい衝動に駆られる。俺は馬鹿だ。できることなら今すぐ消えたい。できるんなら、彼女をさらってでも。

色を無くした世界の先で、彼女は今にも泣き出しそうな顔でぐっと奥歯を噛んでいた。そうして境界線を踏み越えてしまった俺たちは、ぶくぶくと深い哀しみへ沈んでゆく。まるで海底を這う深海魚のように。




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