「見るに堪えんな」
「そこまで言うかなあもう…そりゃひどい有様ですけど」
「事実だろう」


私の彼氏様はデリカシーがない、と思う。頭もよければ運動も出来て、そのうえ我らが秀徳高校の隠れイケメンときた。そんな非の打ちどころのない彼にも当然マイナス面はいくつか存在する。そのうちひとつがこの「デリカシーのなさ」ではないか、とは彼女である私の観察結果によるものだ。デリカシーがないというか、言いかえれば「物言いがストレートすぎる」でもいいかもしれない。とにかく今のように私の気にしていることを鋭利なハサミでスパッと切りつけるくらいには、はっきりばっさりと物事を切り捨ててしまう。そのくせ好きだとかいう愛の言葉などの類はなかなか口に出してくれないものだから困りものだ。時々、ほんとうに時々、態度で示してくれることはあるにしたって。

私はカーディガンの裾からちょこっとだけ指を出して不揃いになってしまった爪先を何度も撫ぜる。彼の鋭い瞳が眼鏡のレンズ越しに私の指先を見下ろした。あ、こら、ため息までつかないでよ。ちょっと傷付く。


「そもそもツメが割れるなど不注意以上に栄養管理がなっていない証拠なのだよ」
「それは…」
「然るべき食事や睡眠を摂取していないのだろう。割れやすくなって当然だ」


図星すぎてぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。悔しかったので「ぐう」とだけ呟いて恨めしげに彼を見上げてみたが、「なんなのだよ」と一蹴されて終了。昼休みもあと10分かそこらという教室は生徒たちの談笑の声で騒がしく、窓際の一番後ろとその前を陣取る私と彼の席だけが隔離されているみたいに感じられた。重たいカーテンが風に揺れている。彼と私の共通の友人である高尾は先輩に用事があるとかなんとか言って昼休みが始まったそばから席を外していたが、おそらく私と真太郎に気を遣っての行動だろう。へらへらしているようでヘンに気を回すのだから、どことなくくすぐったい。別に高尾が一緒でも私も真太郎も気にしないのに。そう言ったところで「おまえらじゃなく俺が気まずいんだよ」みたいなことを言われてしまうのだろうけど。閑話休題。


「真太郎はめちゃくちゃ手ぇ綺麗だもんね」
「おまえと違ってきちんと整えているからな」
「あーもう私のことはいいから!」


さきほど机の角にぶつけてぱっきりと割れてしまった人差し指の爪を私は忌々しく眺める。その隣の中指の爪の先も一部分だけ白くめくれていて、そこから二枚爪になっているようだった。それを発見してしまって、ちいさくため息。反対の手のささくれなど見たくもない。花嫁修業、なんてばかなことを思い立ってお母さんの家事の手伝いを始めたからいけないのだろうか。洗い物やお弁当作りなど、自分で出来る範囲の小さなことではあるけれど、思った以上に指先を酷使しているようだ。それに真太郎の言うとおり、夜更かしとか、ペース配分のヘタなダイエットとか、そういう生活習慣の乱れもきちんと身体に影響しているらしい。なるほど、機械のように正確な日々を送っている彼の指先が見惚れるほど美しいのも納得である。私もテーピングテープなどで保護してみたら、すこしはマシになるだろうか。


「…いいなあ」
「? 何がだ」


ぽつりと零した声はきちんと彼の耳に届いたらしい。自分でもほとんど無意識に落としたそれに、自分で驚いてしまう。


「…いいなあ、って、何だろう。真太郎の手?」
「自分で言ったんだろう」
「そうだけど」


白いテープできっちり巻かれた5本の指と、その反対の右手を交互に眺める。ちょっと変態くさいけど、うっとりするほど綺麗な手をしている、と思う。彼が丹念に手入れしているツメだけでなく、すらっとした指やその節々、掌の大きささえも美しい。この手が毎日硬いバスケットボールを弾いたりしているなんて信じられないくらい。そうして時々不器用な手つきで私の手を捕まえてくれたり、髪に触れたりしているのかと思うと、ますます信じられない。自分の小さな手がまるで釣り合っていない気さえする。


「私、真太郎の手が好きだなあ」
「………それは、どう反応すればいいのだよ」
「素直に喜んでくださいよ、褒め言葉ですよ」
「そうか」
「うん」


かちゃりと音を立てて左手で眼鏡のブリッジを上げて左に視線を反らす。恥ずかしいときの癖だ。それがわかってふふっと笑みをこぼせば、「笑うな」とぴしゃり。きっと、好きっていうフレーズが恥ずかしかったんだろうなあ。私も言ってみたら思ったより恥ずかしくてくすぐったかったのだけど、事実すきなものはすきなのだった。ぼんやりとそんなことを思っていると彼の指がこちらへするりと伸びてきて、あっと思う間もなく指先を捕まえられてしまう。まじまじと、彼の視線が歪なツメたちに注がれる。


「びっくりしたあ、なに?」
「見るに堪えんな」
「二回目だよそれ!」
「このままではどこかに引っかかるだろう、切ってやるのだよ」
「え、」


言うが早いか、私の意見など聞く耳ももたないと言った風な態度で。私の手を右手で捕えたまま片方の手だけで器用に鞄の中から爪切りとヤスリを取り出して、割れてしまった鋭く尖った私の人差し指の爪に爪切りがあてがわれる。え、ちょっと、いやいやいや!そう言って手を引こうと思ったのだけれど、さすがはバスケ部レギュラー様、いえエース様。ぐっと自分のほうに手を引きよせてみてもびくともしないのだ。がっしりと大きな掌に掴まれて、成す術もなく。そうでなくともばかみたいに真剣な表情をして私を射抜くものだからどうしようもない。誰かに爪を切ってもらうなんて滅多にない行為なことに加え、あの真太郎が、私のために自らその行為を買って出てくれるなんて。しかもここ、昼休みの教室ですし!ねえ真太郎さん!?


「しん、真太郎!真太郎さん!」
「なんだ」
「えーと…」
「安心しろ、きちんと整えてやるのだよ」
「いや全然そういう心配はしてないんだけど…」
「なら大人しくしていろ」


昼休みが終わるまで、あと5分。そろそろ他のクラスメイトたちもぞろぞろと教室へ戻ってくる頃だ。もうここは切り離された世界ではない、ざわめきはさっきよりも近くにあるように感じられた。友達や近くの席のクラスメイトも面白半分で遠巻きからこっちを眺めている。だって、成績優秀でスポーツ万能かつ隠れイケメンで奇人変人と名高い緑間真太郎が、何故だか女の爪を熱心に切りそろえているのである。どんな状況だよ、とつっこまざるを得ない。当の真太郎はまったく意に介していないようで、丁寧な手つきでぱちんぱちんと私の爪を適度な長さに揃えてゆく。あれよあれよと言う間に右手の指は全部綺麗な長さになったし、割れたところもきちんと除去されている。ささくれもない。爪切りはヤスリに持ち変えられ、シュッシュと私のつま先を削る。くすぐったさに身をよじると、覗きこむように視線だけで咎められてしまった。「動くな」と彼の瞳が言う。あ、はい、わかりました。こくりと頷くより他ない。

「…真太郎、」小さく呼びかけてみても返事はない。完全に無視されてしまった。仕方がないのでそのまま言葉を続ける。


「あの、ありがとう、ね」
「!」


ぴたり。彼の手が止まる。途端に掴まれた手が熱を孕んだように感じられて、いつもよりちょっとだけ心臓が早く脈打った気がした。レンズの向こうの瞳と目が合う。一瞬、時間が止まる。


「…ついでにハンドクリームも塗ってやるのだよ」


耳をほんのり赤くしてそんなことを真顔で言ってくれるから、なんかもうどうしていいかわからなくなって。こくんと頷いた私の耳も相当赤かったと思う。昼休み終了のチャイムと同時に滑り込んできた高尾の茶化すような声も遠く聴こえなくなってしまった。二人きり、小さなときめきの上に座ったままで。




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