「ねえねえ蔵ノ介さん」
「なんですかさん?」


くすくす笑いながら彼のほうを見ずにそう言えば、向こうも同じように笑いながら返事をくれた。私の言いたいことなんて、つまるところ彼はお見通しなのだ。その証拠に文庫本をめくる手は止まり、読みかけのページにきちんと栞が挟まれる。ほら、私のおねだりを聞いてくれる体制は万全のようだ。

彼の動作を一瞥して、私はドライヤーとタオル、それからお気に入りのアウトバストリートメントを持って、ソファに座る彼のもとへ急ぐ。一緒に暮らすようになってからこのおねだりの頻度がどんどん増えるのは気のせいじゃない。だって、お風呂上がりに彼に髪を乾かしてもらうのは私にとってはちょっと特別なご褒美みたいなものなのだ。その日の気分で変える入浴剤も、きちんと肌をうるうるにしてくれる化粧水も、一日の疲れを癒してくれる大切なものだけれど、時々甘えて、子供みたいに彼に髪を梳かれることが、なにより嬉しい。生クリームいっぱいのシフォンケーキくらい、好きだ。微妙なたとえだけど。


「あ、紅茶。いいな」
「乾かしたら淹れたるわ」
「やった」
「ほら、はよおいで」


そう言いながら私に腕を伸ばして、きちんと自分の足の間におさめてしまう。後ろからぎゅうと抱きすくめられて、お風呂上がりの肌に彼の体温がやわらかく触れて、気持ちがいい。ソファのサイドテーブルに置かれたマグカップの中には、美味しそうな色をした紅茶が行儀よく注がれていた。


「熱ないか?」
「うん、大丈夫」


ドライヤーの温風が私の髪をばさばさと浚って、すこしずつ冷たさを奪ってゆく。彼は丁寧に私の髪を梳き、均等に熱を当てる。毛先が乾燥しないようにと根元にドライヤーを向ける配慮もばっちりだ。髪にしっかりと浸透させたトリートメントの淡い香りが香って、私はそうっと目を閉じる。彼の大きな手が何度も何度も髪に触れ、頭に触れた。あたたかくて、心地よくて、このまま眠ってしまいそう。ゆらゆらと揺り籠に揺られてゆく。


「あれ?」
「…ん?」
「シャンプー変えた?」


とつぜんドライヤーのスイッチが切られ、ごおごおと風の送られる音が止まる。閉じていた目を開け、眠りかけていた頭を起こし、半分だけ首を後ろへ回すと、いやに神妙な面持ちをした彼と目が合う。そのまま私の髪を一房手に取り、鼻先へ近づけたりしている。ものすごく、ものすごく真剣すぎる顔で私の髪の匂いを嗅ぐ彼にはちょっとときめきを感じない。私のご褒美タイムを返せ、と言ってしまいたくなるくらい。そのくせド真面目に小首を傾げられてしまっては、なんだかこっちが悪いことをしている気分にすらなってきて、肩を縮こまらせながらその様子を伺う。


「……なに?」
「ちゃうな、シャンプーちゃう。シャンプーは変わってへんやんなあ?」
「うん、あの」
「なんかいつもとちゃうええ匂いがする」
「…あ、そう」


彼の気を引いたのは私の髪ではなく、鼻腔を擽る匂いの正体だったらしい。よかった、と安堵のため息をつくと「なにが?」と本当に何もわかっていないような顔をされてしまい、なんでもない、とぶっきらぼうに返す。髪質がどうこうとか手入れをさぼっているんじゃないかと文句をつけられるかと思って、どきっとしたというのに。拍子抜けだ。


「この匂い、マッサージバーだと思うよ」
「マッサージバー?」
「ボディバターみたいなの。香りつきのやつに変えてみたんだけど。はちみつのやつ」
「ああー、そういやソレっぽいなあ」


納得や!と満足げに笑って、あとは何事もなかったようにドライヤーのスイッチを再びオン。予告もなしに温風が髪をすくって驚いたけれど、また彼の手にやさしく髪を撫でられて、だんだんと意識はそっちへ戻ってゆく。彼のほうも私の髪を大事に大事に扱ってくれるから。
彼の足の間にちょこんと座って、お風呂上がりの身体の内側からくる暖かさでぼんやりとして、まるで動物が親に毛づくろいしてもらうみたいに、じっくりと甘やかされる。新しく買ったマッサージバーでしっかりマッサージした肌はいつもよりしっとりとしていて、蜂蜜のような甘やかな香りを燻らせていた。なんの拘りもなく買ってみた商品だったけれど、思っていたよりも悪くないなあなんて思いながら、髪を梳く彼の手の中にすとんと落ちてゆく。


「ほい、できた」
「ありがとー」
「なあ」
「ん」
「この香りええなあ」
「うん」


彼のおかげでさらさらになった髪を手でさわりながら、生あくびを噛み殺す。やっぱりちょっと眠い、けれど紅茶も飲みたい。幸せな二択を行ったり来たりしながら彼からドライヤーを受け取ってコードをまとめたりしていると、今度は彼が甘えるように後ろから覆いかぶさってきて、すっかり身動きが取れなくなってしまう。

「わ、ちょっと、」「やっぱ、ええ匂いするわ」とか何とか言って、乾かしたばかりの髪を邪魔だと言わんばかりにかき分けて、首筋のあたりに顔を埋められたりして。ひゅうひゅうと吐息が肩にかかってくすぐったい。がっしりした腕をぺしぺしとはたいてみるけれど反応はなく、それどころかますますの力を持って、逃がさない、みたいに拘束されて、視界の端にミルクティ色の髪がちらついた。


「あかん」
「なにが」
「絶頂」
「ほんとごめんなさい離してください、今すぐ」
「冗談やん」
「冗談に聞こえない」
「うん嘘、ほんまや」
「ほらあ!」


なんだか身の危険を感じて身体をよじったりしてみても、抜け出せるわけもなく。「やってなあ、」と、耳のあたりに唇を寄せられて吐息と一緒にことばを吹き込まれてしまって、思わず肩が跳ねる。わざとだって分かっているのに、極限まで色っぽい声なんか出したりするものだから。かあっと顔が火照るのがわかった。


「めっちゃ美味そうな匂いすんで、自分。誘ってるん?」
「っ、」


そんなわけない、そんなわけないのに。どうしてか唇からすぐに言葉が出なくて、とりあえず、ちょっと力を込めて彼の手の甲をぎゅっと抓る。このまま落ちてしまうのは癪なのだ。いつもいつも巧みな彼のペースにはめられてしまうんだから、今日は簡単に落ちてなんかやらない、そんな意味合いを込めて。


「いッ…!」
「そんなこと言う子にはお仕置きです」
「抓ることないやろ」
「紅茶!紅茶淹れてくれるんでしょ!」
「あ~…せやった」


諦めたように彼の腕から力が抜けて、ようやく身体が自由になる。駄々の通じなかった子供みたいな情けない顔をしている彼を横目にドライヤーやタオルを片付けたりして、赤くなった頬をせっせと隠した。のそのそとソファから立ち上がった彼はマグカップの中に残っていた紅茶を一気に飲み干してから、恨めしそうにこっちを見遣る。牽制するように「お砂糖とミルクも忘れずに」というと、降参ですと言わんばかりに両手を上げて、「はいはい」と一言。どうやら軍配は私に上がったと見ていいらしい。


「今日は大人しくしといたるわ」
「今日は!?」
「そ。明日はわからんで?」
「明日、友達のとこに泊まってこようか?」
「ちょ、あかん!行かんといて!」
「ぶっ!急に弱気すぎでしょ」


さっきまで容易く私を翻弄して余裕たっぷりに笑っていたくせに。途端にしゅんとする表情がおかしくてくすくす笑うと、ほんまにあかんで、なんて縋りつくように言われて。そんなに簡単に私が蔵ノ介から離れてゆけるわけがないのになあ。あたためたティーポットの中にダージリンの飴色がとろりと広がるみたいにして、はちみつの夜は更けてゆく。




inserted by FC2 system