「高尾ー!旅行しようぜ!」
「いやそんな、『磯野!野球しようぜ!』みたいなノリで言われても」
「磯野ー!野球しようぜ!」
「言い直すなよ。つか俺磯野じゃねーし、野球もしねーから」
「うん、ていうか野球とか全然したくないし」
「めんどくせーなおまえホント」


暑さで頭がやられたのか、と思った。わりと本気で。電話口では中島、もといがきゃんきゃんと吠えている。テキトーに相槌を打ちながらベッドの足に背中を持たれかけた。暑い。

今夜は熱帯夜になるでしょう。綺麗な笑顔でおは朝のお天気お姉さんが告げていたのは十数時間も前のことだ。うだるような暑さは朝から続き、夜もとっぷり暮れたというのにむわんとした空気が街を覆っていた。昼間はやかましいくらいに響いていた蝉の大合唱はもう聞こえない。蝉たちはどこかに息をひそめているらしかった。扇風機から送られてくる風も生ぬるく、扇風機はあまりその役目を果たしていない。あー、俺も部屋にクーラー欲しい。どうしようもないことを思いながらもそろそろ明日の支度をしてさっさとシャワーでも浴びようかと思っていたところにから来た着信に、若干のめんどくささを感じながらも適当に答える。「あいあい」とやる気なさげに通話に応じてみたところ、一言目が「高尾ー!旅行しようぜ!」である。俺じゃなくても、カツオでもびっくりするっつーの。相変わらずの行動は半分くらい意味がわからない。

「つーかさぁ、」ベッドの上に置きっぱなしだったバスケットボールを片手間にいじる、俺。
「んー?」間の抜けた返事を返す、


「おま、いま何時だと思ってんだよ」
「何時?電話してるから見れないよ」
「23時過ぎてっけど」
「あら」


何とも思っていないような声でが言う。実際、ほんとに何とも思っちゃいないだろうが。


「もうちょいで日付変わるぞって時間に何言っちゃってんの?何だよ旅行って」
「行きたくない?」
「行きたい行きたくないっつーか常識考えろって」
「高尾さん冷たぁい」
「誰なんだよおまえ」


無理やり捻りだしたみたいな猫なで声をあげて、電話の向こうでがくつくつと笑った。何がオカシーんだか。まさか本当に頭がいかれたんじゃねーだろうな、と訝しんだが、のことだ。十分にあり得る。


、おまえ熱中症とかになってない?大丈夫?」
「え?なってないよ、何でそんな急に優しいの」
「俺はいつでも優しいっしょ」
「ごめん電波が悪くて聞こえなかった」
「切るぞ」
「待って!高尾クン優しいねありがとう!待って聞いて!!!!」


あんまりにも必死になってが叫ぶのでおもわず爆笑してしまった。何その縋るような声。ひーひー言いながら腹を抱えて笑うと、ぶすくれたように電話がぐちぐち言う。


「高尾さあ、部活、忙しいじゃん。合宿とかもあって」
「部活?あー、うん、…ん?へ?」


さっきまでとはまるで違う温度での声が飛んできて、しかもそれが突然ブカツなどという予想外の単語を弾き出すものだから、わけがわからず語尾がマヌケにぴんと跳ねる。部活、うん、あるけど。合宿もしてきたけど、それが?
はあまりバスケ部のことには詳しくないし、バスケの話も滅多にしない。俺が一方的に部活であったことやチームメイトの話、大会や合宿などについてべらべらと話して聞かせるのを適当な距離でうんうんと相槌を打って時々バカ笑いをする程度であったはずだ。の口から俺の所属する部活の話が出た回数などは片手で足りる。けれども。


「で、だ。夏休みに遊ぼうぜって言った話おぼえてる?」
「…あ、あー!はいはい!したっけな、そういえば」
「終業式のHRん時に」
「うん。したした、したわ」
「部活あっていろいろ忙しいだろうなーいつ暇かなーってずっと思ってたんだけど、聞くタイミング逃しちゃって。それで、もういーやめんどくさいからさっさと誘って弾丸で行こうと思ったの。で、今がその時だと思って」
「いま?」
「なう」
、オマエやっぱ熱中症だわ」


「失礼な」憮然とした声が聞こえる。俺は呆れたふりをしてバスケットボールをぽいとベッドへ放り投げて戻した。

そういえば、そうだった。明日から夏休みと言うなんとも浮かれた気持ちを持て余していた2週間ほど前の終業式で、長たらしい校長の話をBGMにしながらとそんな話をしていたのだった。勿論先生たちに見つかってどやされたりしないように、ひそひそとした声で。「夏休み短いけど、どっか遊びに行きたいねえ」「あー、いいな。海とかどうよ」「あんた合宿で海行くって言ってたじゃん」「そうだけど、泳ぎに行くんじゃねえし。バスケしに行くんだしさ」「そっか、…うん、海もいいねえ」「どっか遠出したいよな」「賛成」「考えとけよ」「おうよ」…あー、思いっきり言ってたな、そんなこと。忘れたわけではないけれどあまりにもが唐突なタイミングでその旨を連絡してくるものだから、何のことかと別の記憶をあれやこれやとひっくり返してしまった。海、うみ。唇をぱくぱくさせてその単語の感触を確かめ、壁にかかった時計を一瞥する。時刻はもう半刻で明日になろうかという頃合いである。


「どっか行きたいって確かに言った、言ったけど、今じゃないと思うわ…」
「いや、いま高尾のこと思い出したからさ。今言わないと、と思って」
「なんでそう猪突猛進なの、おまえは」
「今ひま?」
「聞けっての。暇じゃないし、暇でも今からとかねーよ」
「ええええええ」


だだっ子か!とつっこみたくなる声をBGMに、ローテーブルに置きっぱなしだったグラスに口をつけた。ちょっとだけぬるくなったジンジャエールがしゅわしゅわと喉から滑り落ちて行く。カラン、と氷が音を立ててぶつかった。


「つか俺明日朝から部活あるんだけど、サン」
「えー」
「しかも朝はえーのよ、困ったことに」
「それは…困ったな。もしかしてもう寝る?」
「なんだよ?」

「ちょっと、出てこれない?かな」


ちょっとって、どこまで。
そう言おうとして口を開いたけれど俺の唇は用意した言葉を弾かなかった。もしかして、という思いが唇の動くのより一瞬早く頭を駆け抜けたから。さっきから気になっていた電話の向こうの微かな音と、本当に残念そうな口調。それから俺の、専用の勘。とくにこれはめちゃくちゃ当たるのだからどうかしている。なら、このバカなら今よぎった「もしかして」をマジで実行しそうである。

慌てて立ち上がると中途半端に開けていた窓の縁をひっつかんで思い切りスライドさせた。ばん!と大きな音がしたけれど気にしない。窓から身を乗り出して見下ろした先には街灯に照らされたバカが一人いて、俺の顔を見るなり眉を下げてへらりと笑った。近所迷惑も考えずに俺は大きく叫ぶ。


「おまえ、ほんっとバカな!」


うっさいわ!と、負けじと大きな声が立ち尽くしたバカの口と電話口から同時に聞こえてきた。耳がキンとする。


「何やってんだよ」
「あの、コンビニ行ったついでに作戦会議しようかと。遠出?遠足?の。てかやっぱ海で決定?」
「ありえねー、なんで来るよ?や、うん、海でいーけど」
「とりあえず高尾の分のスイカバーあるから下りて来て」
「まじ?サンキュー」
「126円になります」
「金とんのかよ!」


さっきから電話の向こうでガサガサやっていたのは、の右手にしっかりと握られたコンビニ袋が正体だったらしい。いかにもちょっと買い物に出ました、くらいの気取らない格好(Tシャツに短パンにビーチサンダル。気取らないにも程がある)でアイフォン片手にこちらを見上げている女は、バカみたいに浮かれた顔でアイスの入った袋を持ち上げてみせた。おまえどんだけ海行きてーんだよ、つーかこんな時間にうろうろして暇人にも程があんだろ、と、小馬鹿にした言葉はいくらでも口をついて出てくるのに、そういう俺の唇もしっかり弧を描いているのだった。赤いカチューシャで無造作に上げた前髪もそのままに、財布から適当に小銭をひっつかんで、バタバタと階段を駆け降りる。足取りは軽い。リビングでくつろいでいる母の背中に「ちょっと出てくるわ」と声をかけると、返事はその背中からではなく同じくリビングにいたらしい妹から返ってきた。「なに、デート?」うん、そーかも。いやそうじゃねーかも。さっきが浮かべていたのとまるで同じようなバカみたいな笑顔で応える。浮かれているのは俺がを好きとかましてその逆とか、そんな甘酸っぱいものではない。ないと断言できるのだけど、まあ勘違いされてもそれはそれでいいかもしれない。別にのことは嫌いじゃないのだし、多分っつーか絶対アイツもそうだし。「おかーさん、お兄デートだって」玄関でテキトーなサンダルをひっかける俺の後ろで、女子みたいな声で妹が言うのが聞こえた。誰々ちゃんが誰々くんのこと好きなんだって、ととっておきのネタを見つけた時のクラスの女子みたいな声だった。

左手に握ったケータイはまだとつながったままで、耳には当てていないけれど「なに?デートなのあたしら?」と呟くのが微かに聞えた。耳いいなおい。名目なんかどうでもいい、俺たちの行動も関係も。そんなことよりいつ海に行くか考えようぜ。ドアノブをひねって玄関のドアを開ければ、熱帯夜の足元でバカが2人に増える。どうやら夏休みはこれからが本番らしい。




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