夢の中で、私を止めようと最後に腹にささったのは山伏国広その刀だった。
 手を斬られ足を刺され、それでも向こう岸へ進もうとする体はもう痛いんだか熱いんだか重いんだかわからなくて、もはや理性ではなく感覚、あるいは本能みたいなものだけで動こうとしているのがわかった。

 もやのかかった横断歩道の反対側に「その人」が立っていて、信号は赤。行ってはいけないとわかっているのに人間の欲というのはおぞまくして、車が往来していようがおかまいなしで、私は血まみれで対岸へ向かおうとしていた。
 どうしても…どうしても触れたかった。一度。もう一度だけでも。触れてほしかったし、抱きしめられたかった。頬を合わせて愛を囁きたかった。もうそれだけしか考えられなくて、「だめだ、だめだ」をうわごとのように繰り返しながら、どこかから飛んでくる刀身たちが必死に四肢を刺して止めるのもかまわず私は進んだ。

 はっと衝撃に気がつくと、その瞬間もう腹から目が離せなくなっていた。
 立派に反り返った刀がずぶりと私を貫通していて、もの言わぬ力で私をその場所に縫い止める。足はそこから前に動くことはなくなっていた。ゆっくりと溢れる血のにおいを嗅ぎ、手が切れるのもかまわずその刀身を掴むとすぐに「ああ彼だ」とわかって、その感覚が私をたいそう安心させた。
 さっきまで刀身しかないと思っていたそれは意識をしてみるとハバキも鍔も柄もしっかりとついていて、順々に柄頭に向かってなぞるように撫でていくうちにぐんと引っ張られるような眠気が襲ってきた。あ、気絶すると反射的に思う。横断歩道はもう見えなくなっていた。あんなに焦がれた人の姿も。どんどん遠くなる。顔はもう見えない。ああもう一度…と思うまどろみの中で、はっきりと声がした。それはあの人ではなかったけれど、それでいいと思える声だった。すごい力で私を引っ張って呼び戻す、だけどこわくはなかった。身をゆだねても大丈夫だと思った。


「主殿、」

 …またかあ。
 朝食の味噌汁のかぼちゃを飲み込みながら、頭の中で繰り返した。またかあ。そう毎日というわけではないのだがそこそこの頻度で同じ夢を見てはさすがに気になるし、なにより、申し訳ない気持ちがした。もちろん彼に。同じものを見てから2度目のタイミングで一度彼には「あなたの夢を見ました」と伝えてはいるし、彼のほうに…なにか体や刀そのものに不具合が生じているような感じはなかったから、完全に私のほうの問題かもしれないとわかってはいても。

 広間の中腹のほうで一人で朝食をもらっていても、先に食べ終えたひとや通りすぎていくひとは律義に私に声をかけてくれる。「主君、おはようございます」「うん、おはよう」「主おはよ、右の髪はねてない?」「おはよう、なんかもう直んなくて」私が家主なので当たり前と言えば当たり前なんだけど、一人でぽやぽやしているところに次々と球が飛んでくるのでいつも食べ終わるのが遅くなる。元々食事を取るのは早いほうじゃないから余計に。
 ずず、とまた味噌汁を啜る。ちゃんと熱い。舌先も喉の奥も腹の底も。変な夢を見て寝起きはむちゃくちゃ悪かったし寝ぐせも直んないけど、とりあえず今日もちゃんと生きている。生きて、生活している。ここでの大所帯な生活もすっかり板についてきた。


「あ、」


 大きい背中が見えて、目が合ったなあと思ったら小さく声が出た。箸でつかまえたきゅうりの漬物を皿に落としそうになる。もうとっくに朝食は終えているだろうと勝手に思っていたから少し驚いた。


「おはよう、主殿」


 重心の低い声がふたつくらい向こうの机からやってきて、小さくかぶりを振りながらおはようございますと返した。満足そうに私のそれを見た彼は、広間の壁際に並んだバイキング形式のレーンから今日の朝食のメニューをバランスよく選んで盆に乗せてやってくる。
 「ご一緒してもよろしいか」と、いつも私が断らないのを知っているので答えは待たずに私の向かいに座った。相変わらず白米の量の多さにちょっと笑いたくなる。修行僧だから食事は慎ましいと思いがちだけど、それ以前に戦う生き物であるということがこの人のプライオリティなんだと食事を共にするといつも思う。


「朝遅いの珍しいですね。いや遅くはないけど、山伏さんにしては」
「はは、早くに目が覚めたゆえ。裏庭で少々瞑想していたら夢中になってしまったようである」
「いいことじゃないですか、集中できたってことでしょ」
「うむ」


 ふっくら焼かれた鮭の切り身を崩しながら山伏さんは笑う。頭巾も被らない、楽な恰好のままでいるのを見るとすこし眩しいなと思う。艶やかな水色の髪はやはり人工的な染髪のそれとは違う感じがする。何度も見ているけど。


「今日の南瓜は主殿のリクエストであるか?」
「ばれたか」
「お好きであろう」
「うん、和泉守には邪道だって言われましたけど。好きなんですもん。畑も今収穫時だって言うんで」


 食事の用意は朝昼晩当番制にしているけれど、わりと融通は利くし誰かのあれが食べたいこれが良いもそれなりに通るのが我が家の良いところだと思う。あらゆる当番制の適当なところが家主の私に似たんだだと軽口を叩かれるけど、窮屈なのはきらいだし、なにより彼らの本分は生活を営むことではないからあまり縛りつけたくはなかった。裏の畑で取れた季節の野菜を調理することや時々長廊下をぞうきんがけリレーすることは、あくまで「面倒だけど楽しいこと」の一つにしておきたい。それを大きな目的にはしたくなかった。生活の楽しみなんてのをいちばんに味わいたいのは彼らではなくて私のほうで、それは自分自身の心をちゃんと立たせておくための手段だった。収穫時期を迎えたつやつやのかぼちゃを美味しく食べたいという個人的な欲求もそりゃあるけど。

 審神者の仕事をする前はいわゆるザ・普通のマンションに一人暮らしで仕事場とそれを往復するだけの日々だったから、今のほうがよっぽど精神的に恵まれているというか、豊かな感じがする。そういうふうに心掛けている、というのも勿論大きいけど。あの時の暮らしに不満があったわけじゃないけど、週末に恋人とデートに行くとか、そのまま恋人のほうのマンションに泊まって怠惰に過ごすとか、もう戻れないなあと思う。
 今より何年か前。(それなりに大人ではあったけど)今より少し子供だったし、他人に依存していた。自分の形を保つのは自分じゃなくて恋人だと思い込んでいたし、それでいいと信じていた。それぐらいの恋だった…ことは、そうだけど。べったりと彼に寄りかかってふくふくと守られていた。
 今思うとほんと浅はかで、もっとちゃんとしとけよバーカと言いたくなる。本当に。どんなに覚悟していたってなくなるときは一瞬だ。…寿命だったし、彼はそれを全うした。細くなる命の光を受け入れるだけの時間が私にはあったはずなのに、永らえるその私のほうが現実から目を逸らしてしまった。酷く情けない話だと思う。病気に持って行かれた男を失った女はあっけなく膝をつき、途方に暮れた。文字通りだった。当たり前に生活をして仕事をするようになるまで何年も要したし、結局今も、根っこの部分でふらふらしているから夢に見たりするんだろう。


「山伏さん」
「む?」
「今朝、なんで早起きしたんですか。なんか感じました?」
「否、特段悪いものは感じられなかったが」


 何かあり申したか、と山伏さんが声を潜めてくれる。体は大きいが察しが良く、本当に他人のことを良く見ているひとだなとこういうときつくづく思う。自分以外にこのひとを近侍にする審神者があまりいないと聞くのもハアア?なんで?と真顔で思うくらい、やさしくていい男だ。ついつい頼ったり甘えたりしてしまう。

 「夢の中で悪いことしようとしてたんですけどお」なるべく軽い感じで話そうと思ったらうまくいかなくて語尾が間延びした。恥ずかしい。前に山伏さんに同じ夢の話をしたときも似たような感じで、笑ってごまかす私に合わせてカカカとがんばって笑ってくれたのを思い出した。最後にひとくちぶん残った卵焼きをむぐむぐやる私に、山伏さんはいちいち相槌を打ってくれる。


「みんなが止めてくれて、最後にトドメ刺してくれたの山伏さんでした」
「…そうか」


 またであるか、とつとめて柔らかく言われて、「またであるよ」とふざけたら山伏さんはちょっとだけ困ったように笑った。ああすいません、ほんとにごめんなさいと心の中で懺悔する。口に出して何度言ってもなんとなく受け流されそうな感じがした。付け合わせのミニトマトを口に運ぶ山伏さんは私に気を遣ってくれているのか、大げさに表情を変えたりはしない。大人だ。厳密にはひとではないのでそう表現していいのかわからないけど。初めてその夢の話をしたときも、次もその次も、深刻になりすぎたり茶化したりは決してしなかった。すげえなあ、と他人事みたいに思ってしまう。

 夢の内容は、いつもあまり変わらない。ようは死んだ恋人に会いたくてたまらなくてぐずっているというもので、3回目4回目となると自分でもああまたかと思ってしまう頃合いだった。いつもその人に会ったり触ったりする前に刺されて事切れるので、先の展開だけがわからない。会って触れて、そうしたらどうするんだろうか。どうなるんだろうか。それだけが少し怖いと思うのはやっぱり職業柄なんだろう。過去の改変はご法度だ。うっかり手を出してしまって処分されたという同業者の話も噂で聞かないことはない。


「悪いことと仰せられるが」
「うん」
「過去の事実に障るようなことはされていないのであろう」
「…多分、してないと思います。する前に刺されてるだけかもですけど」


 左の腹のあたりをさすってみても異変はない。あったら困るけど。山伏さんが私の仕草をじいと見つめてから、ゆっくりと口を開く。


「それほどまでに強く想われるその御仁は幸福であろうなあ」


 しみじみと息を吐きながら言われて、ぎょっとした。本当に心からそう思っていますみたいな言い方だった。空腹の時の白米がむちゃくちゃ美味しいとか夏場のビールが喉を通るとすごく気持ちいいとか、そういうものに近いような。本能的な感じだったと言ってもいい。


「慕うに足る者がいるというのもまた、不幸ではないのであろう?」


 まるで刺すように、それが私の中に入ってきた。じっくりと。体の正面から裏側を通るみたいにして。逃げ道なんてありませんよというほどに真っ直ぐな論調だったから、あまりの正面突破っぷりに悲鳴をあげたくなった。

 返す言葉をうまく用意できなくて口を開けたり閉じたりしてしまって、でも当の山伏さんは私の相槌も返答もどうでもいいらしかった。そんなんだから、ますます参ったと思う。このひとの言葉は裏打ちがなさすぎるのだ。
 「…それ、最初から言ってくれません?」ようやく口から出たのは憎まれ口で、自分の口調があんまりにもへなへなしているからちょっと悲しくなった。「いや面目ない、以前から考えてはいたのだがうまく言えなんだ。拙僧は口下手ゆえ」山伏さんは本当かどうかわからないことを言って小さく笑う。白米の一粒も残さないできちんと食べ終えて両手を合わせてごちそうさまでしたをする姿に、なんだか一蹴されたような気になる。

 人を想うことは、べつに悪事ではない。そりゃそうだと思う。悪と呼ばれるべきはそっちじゃない。もしかしたら誰かにとっては過去の改変改ざんは正義になり得るのかもしれないけど、審神者であるという今の自分の立場上はそれを全力で肯定はできない。自分の理性がちゃんとそう告げているのがわかった。罰せられるべきが行為でなく思慕のほうだとしたら、おそらく私も私の刀たちも総員焼き打ちものだろう。そんなのは困る。少なくとも家臣と呼べる我が家の男士たちの想いは私が胸を張ってよしとしてやりたい。やっぱり自分のそれだって、簡単には捨てられればそんなに楽なことはないだろう。時間が解決するかもしれないけど、今は。


「ねえ、私が誰かのこと好きすぎて悪事に身を染めたらどうします?ほんとにやっちゃったら」


 いたずらするみたいに言ってみた。ら、山伏さんも似たような笑い方をする。厚い唇からのぞく歯がまぶしくて、このひと虫歯とかなさそうだなと平和なことを思う。あほなことを考える余裕が戻ってきた感じがして、そっと安心してしまった。

 「主殿もお人が悪い」大きく見開いた目にくぎ付けになる。くっきりした顔立ちが修行僧と呼ぶには派手すぎるくらい魅力的だ。この存在に繋ぎ止められるのはすごく贅沢だと思える。また膝をつくほどの絶望も飲まれそうな思念も訪れるかもしれないとしても。


「その時が来たら拙僧に任せられよ、安心召されい」
「…どっち?それ。私斬られます?」
「カカ、どうであるかな」


 空いた気がした穴は塞がっていた。しっかりと、埋めるみたいに。



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