どこか遠くへ行きたい。誰も私を知らないような遠い所へ、各駅停車の振動にひたすら揺られて、真っ白いイヤフォンで世界中を遮断して。日常の倦怠感から逃げ出すように。この虚無感をずるずると道連れにして。そうして辿り着いた先で何をするでもなくすっと消えてしまえたらいいのだ。帰り道などなくてもいい。そう言うと決まって皆は私を子供だと言うだろうし、私も本当にそう思ったのだけど、結局だれにもなにも告げずに実行してしまったのだ。

降り立った先は真っ暗な夜の海で、すこしべたつく潮風がそれらしさを醸し出していた。マナーモードにしていたケータイがぶるりと震えて誰かからの着信を告げたけれど気付かないふりをした。誰も私に触らないで、と思う。
ひんやりと冷たい浜辺の砂が足をとるせいでうまく歩けず、煩わしいのでサンダルを脱いで裸足になってみた。素足の頼りない感覚をすこし気にしながらもサンダルを手に持ってふらふらと辺りを歩く。ひっきりなしに小さく押し寄せるさざ波の音と、私が蹴る砂の音と、私の呼吸。それだけがシンとした浜辺にちいさく聞こえている。海の深さと同じようにこっくりとした夜色の空が一面に広がっていて、久しぶりにこんなに広い空を見た気がした。都会の空はビルばかりで息苦しい。こんな風に月や星がはっきりと見えることも滅多にないだろう。天体のことは詳しくないけれど、涙が出そうなくらい綺麗な夜空だった。少し先にある岬の灯台からの明かりだけが煌々と輝いている。
そっと浜辺に腰をおろして、ゆっくりと瞳を閉じた。静寂の中に響く波のゆらめきがひどく寂しく感じた。夏を待つ生ぬるい風が私の髪をさらう。頬をなでる髪を耳に掛けながら、このまま世界が終ってくれればいいと本気で思った。

死にたいとかそういった感情とは違うのだと思う。今まで死を望んだことなどないし、今だってそうだ。べつに死にたいわけじゃない。些細だけれどやりたいこともたくさんあるし、やらなければならないことも然りなのだ。会いたい人だって、たくさんいる。生きてゆきたい。強く、生きてゆきたい。そのくせ生きてゆくことは難しくて、独りではとても出来やしない。閉じた瞼の裏に彼の顔が浮かんで、ますます泣きそうになった。彼はこんな私を見たら何と言うだろうか。仕方がないなと笑ってやさしく突き放してくれるだろうか。私はそんな彼がおそらく…おそらくは。考えるのはそこでやめた。


ショートパンツに付いた砂を払いながら立ちあがって、波打ち際までふらふらと歩み出てみた。打ち寄せる波にためらいなく足を浸せばひやりとした海水がくるぶしのあたりまで一気に濡らした。ぱしゃん、ぱしゃん。わざと音を立てながら足で水をすくい上げる。一歩また一歩と海へ足を運んでいって、気がつくと膝下でゆらゆらと波が揺れている。つま先に塗った真っ赤なネイルが、深い海の中で不似合いにギラギラ色づいていた。振りかえって少し離れた浜辺に目をやると、微かな光でケータイのディスプレイが点滅している。

誰かが私を呼んだ気がした。



***



半分ほど開けた窓からは生暖かい風が吹きこんできて、少し早い夏の足音を感じさせた。湿気の多いじっとりとした空気が部屋の中へ充満してゆく。カーテンの隙間から覗いた夜にはぼんやりと細い月が浮かんでいたが、都会の明るさでそれは霞んでいた。星ひとつない狭い空はどんなに見慣れてしまってもやはり無機質だと思った。

文庫本へ落としていた目を壁掛け時計に向ければ、長針は先程から数分しか進んでいなかった。本の内容もあまり頭に入っておらず、同じ行を何度も何度も読み返している。らしくもない。ちらちらと盗み見るようにケータイを確認してもその小さな機械は微動だにせず、彼女からの音沙汰がないことを伝えるだけだった。彼女と連絡が取れなくなるのは今に始まったことではないが、こんなにも長い間音信不通になるのは初めてであった。大学にも来ていないらしい。相変わらず人を心配させることに関しては必要以上に長けている。そう憎まれ口を叩いたところで、そんな彼女を案ずるのは他でもない自分だ。彼女はきっと、わかっていない。俺がどれほど彼女を思っているかなど、これっぽっちも。

すっかり集中できなくなってしまった本の中では、一人の男が堕落してゆく様子が生々しく描写されている。どこか他人事のように思いながらもこの本を読むのはすでに数回目だった。生きるということは恐ろしい。それでも生きてしまうのは人間の性なのであろうか、だとすれば俺とて例外ではないのだ。生きてゆきたいと、確かにそう思う。無論、独りで実行するのではないにしても。


無言で彼女からの連絡を待ち続けていたケータイに手を伸ばし、もどかしい気持ちを抑えながら彼女の番号を探した。おそらく何度呼びかけても届くことはないのだろうと思ったが、それでも電話をかけずにいられなかった。もしも彼女が電話に出たらただその声を聴けばそれでいいのだ。元気にしているかと言えれば十分だ。瞳を閉じて聞く5コールめ、彼女は出ない。無造作に閉じた文庫本を見遣る。深い海色をしたブックカバーに、いつか彼女から貰った赤々とした栞がえらく不似合いだった。空けっぱなしだった窓の外からはどこかで犬が鳴くのが聞こえる。10コールめ、11コールめ。小さく読んだ声が彼女の傍まで届けばいい、そう思った。


「……


また今夜も独りでいるのか。




inserted by FC2 system