主のせいだからね。
 実際に口に出して言ったらむちゃくちゃにしばかれるだろうなってことを思いながら、僕は静かに彼女の寝室の襖を空けた。夜も更けているから、注意深く。そうっと。僕のせいじゃない、主が僕を焚きつけるから。主がそうさせるんだ。

 だいたい主はずるい。ずっと思ってたけど。僕はどうしたって沖田くんから離れることができないのに、それでいいんだって、それが僕なんだって言うから。僕は主でいっぱいになって満たされてしまう。主が僕を大事にしようとしてくれてるのがすごくわかるから痛くて、このひとに愛されたらどうなっちゃうんだろう…って思わされる。僕は沖田くんのものだったのに。僕には沖田くんだけがすべてだって思ってたのに。


「………なにしてんのあんた…」


 寝起きどころか半分まだ寝ているような主のがっさがさの声が小さく聞こえて、忍び足で侵入したはずの僕をかえって安心させた。防御も警戒もなにもない、まっさらな主。ああ、このひとちゃんと生きてる、と思う。主も、そして僕も。

 自分が立てる物音以外はほとんど聞こえないような夜半の主の寝室はシンとしていて、だからこそ足音ひとつ衣擦れひとつも大げさに聞こえた。そっと廊下から敷居を跨いで畳を踏むと小さく目が音を立てて、後ろ手で襖を閉めたら主はその擦れる音で目を覚ましたらしかった。布団のかたまりがごそっと一度動いてさっきの「………なにしてんのあんた…」を呟いたきり、あとは呆れたみたいに黙っていた。


「なに、夜這い?近侍呼ぶよ」
「僕だよそれ」
「そうだった、策士だな」


 なるべく音を立てないようにそろりと布団のふちまで辿り着くと、ようやく、というような感じで主が声を上げる。起き上がりもしないまま。真っ暗な中では眠れないたちらしく、足元に行燈がひっそり灯っている。うっすらとした明かりの中で主の布団の隣に腰をおろすのは、当たり前だけどなんだか不思議な感覚だった。そりゃあ日常的なことでは決してないから、そうなんだけど。


「ねえ」
「はい」
「もうちょっと危機感持ったら?僕が暴漢だったら今頃死んでるよ」
「はは」


 でも安定は暴漢じゃないじゃん。てか家の中だし。
 眠りのふちにひっかかってるみたいな口調で目も開かずに言われて、なんだよ、と思う。何を言ってもうまく返してくるみたいな、主のそういうところ。きらいじゃないけど得意じゃないなあといつも思う。言いくるめられてばかりいる気がするからだ。

 「どうしたの」相変わらず起き上がらないままで、主が顔だけこっちを向く。眠そうで舌たらずな喋り方がすごく無防備で、僕は主のこういう姿を見るのは初めてだったので自分から見に来たわりに小さく動揺した。まだきちんと目も覚まさない、ほとんど覚醒しきらない様子はいつもより幼く感じさせる。寝ぼけ眼で朝食を摂りに台所に現れる姿や仕事部屋のソファで居眠りしている姿とはまた違う、初めて見る主のひとつだ。僕はまた主を知ってしまう。


「わからない。僕、どうしたんだろう」
「はあ」


 あ、いま呆れた。疑問符をつけるのも面倒という感じだった。きちんと目を覚ましていたら「はあああ?」くらいは言っただろう。

 近侍とは言え。傍仕えとは言え、たしかに寝てる主の枕元に侵入するなんて我ながらどうかしてる自覚はあるけど。清光あたりに知られでもしたらすんごい勢いでブン殴られるだろうなあと思うし(あいつはちょっと主に対しての感情が一方的すぎる気もするけど、それを言うとますます殴られそうなので絶対に言わない)。
 まあ、他のひとが近侍のときにどうしてるかは知らないけど、でもやっぱり寝てる主の部屋に忍び込むっていうのはそうそうやらないだろう。僕だって近侍じゃなかったらやってない、と思うので確信犯かなあと思わないこともないけど。


 近侍になったのはこれが初めてじゃなかった。もう何度も主の傍仕えは経験している。よそは知らないけどうちは近侍の仕事は持ち回り制だから、何ヶ月かに一度はめぐってくる計算になっていた。僕の前の番は前田で、僕の後に担当するのは獅子王だ。

 主曰く「高校生の日直みたいなもんだと思って。あ、1週間だから日じゃないか。週?週直?」だそうで、僕たちにはそのコーコーセーノニッチョクっていうのが何なのかよくわからないんだけど、要約すると週替わりの当番の雑務、ということらしい。たしかに近侍様としてご立派に主の手助けをするとかまして本丸総隊長っぽく振る舞うだとかといったことは一切なく、主の仕事についてまわって一緒に書類の再確認をしたり主に頼まれて書庫に資料を取りに行ったり主のおやつどきに付き合ったり主の外出に付いて行って荷物持ちをしたり主のお茶に付き合ったりするというのがだいたいだ。
 「べつに誰でもいいけど誰か一人だけにするとやりたいやりたくないで揉めるからローテーションにして」という主の雑な一言により当番化した、主の傍仕え。お手伝い。だから、必然的に近侍でいるうちは主と一緒にいる時間がぐんと長くなる。近侍じゃなくても主の傍を離れたがらないやつはいるけど(清光とか長谷部とか他にもいろいろ)、僕は未だに近侍でいるうちの1週間というのはそわそわして不思議な気持ちになるのだった。


 この主という女の人は名前をさんと言って、とにかくそっけなくてさっぱりしていて豪傑でそのくせお節介で時にぐうたらで、僕は初めてこの人と会った時はけっこう困惑した。さも当たり前みたいに、「ここ俺の居場所ですけど何か?」みたいな顔してその隣に昔馴染みがどっしりかまえていたから余計に。
 清光は僕が主に顕現されるよりもけっこう前から…それこそ主が審神者の仕事を始めたというその時からの主との付き合いらしく、ウン百年ぶりに会ったと思ったら猫なで声で主のそばをチョロチョロしては「ねーさん俺仕事終わったよ。なんか手伝う?お茶淹れる?おやつ持ってくる?」だのなんだのやっているから、僕はそれにもますます困惑した。しっくりくるまでにずいぶんかかったし、今も、すっかり日常となったこの生活でさえ夢みたいに思える時はあった。僕は何故ここにいるんだろうって、僕は何のために主と出会ったんだろうって、たまに思う。答えはまだ出ない。出るものなのかどうか知らないけど。

 嫌いなんじゃない。もちろん。主のことも今の生活も。僕は刀だからやっぱり本能的には誰かに使われたいし愛されたい、誰かの愛刀でありたいと強く思う。それをしてくれるのは沖田くんだけだと信じて疑わなかったし、清光のほうもてっきりそうなのだとばかり思っていた。…でも、そうじゃなかった。
 清光は清光で自分の落とし所みたいなものをとっくに見つけているようだったし、主のそばで居心地よさそうにしている姿は僕から見ても嘘がなかった。しっくりなじんでる、愛用されてる、という感じだ。沖田くん以外の人があいつを…僕たちを扱っても良いらしい。ちゃんとなじむらしい。僕自身もそう納得できるようになるんだろうか。


「まさか安定に寝込みを襲われるとは。想定してなかったなあ」
「ちょっと、その言い方はどうかなあ」
「事実でしょうが」
「何もしないよ」
「そりゃそうだ」


 そりゃ勿論そんなつもりは毛頭ないけど、こうやって僕が不躾に寝床にやってこようが主は悠然としているから、なんだよ、とやっぱり思う。焦ったり恥じらったりとかちっともそんな気配がない。まるで自分は女性じゃないし家臣も男性じゃありませんよ、みたいな態度。主はいつもそうだ。

 このひと、主って、さんってたぶん審神者になる前に色々あった人で。たとえば想い人がいたとか伴侶がいたとか何らかの理由で別離したとか。だから恋愛とか色恋とか性別とかそういった気配を自分からも本丸からもスッと消し去って、まるで隠居か出家したみたいにそっけなく過ごしているのだ。実際にその色々を説明してもらったわけじゃないから「たぶん」の域を出ないんだけど、でも何となく…そうだろうなって僕は思っている。僕と似たように誰かの面影を持っているから、そんなんだから僕はこのひとが苦手でこんなにも惹かれるんだ。

 別に僕だって、なんとなく落ち着かないから主の顔を見に来ただけだし。何回も言うけど夜這いのつもりじゃないし、まして主と性的にどうこうなりたいって話じゃない。本当に。主が女性として魅力的かどうかとかそういうことでもなくて、主がこんなふうに僕たちのことを家族とか仕事仲間みたいなふうに見なしている以上は、主の眷属たる僕たちも「そういうふうに作られてる」ってことなんだろう。刀は所有者に似るものだって、いつか主が言っていた。よその本丸では審神者と刀が想い合ったり結ばれ合ったり恋の果てにかけおちめいたことをしたりする例もあるって、これもいつか主が言っていたっけ。むちゃくちゃ遠い目で。他人事みたいな顔して。


「眠れないの?」


 僕がじっと枕元に座り込んだままなのを見かねて、主が問う。相変わらず寝起きですみたいな声をしてるからちょっと申し訳なくなるけど、こんなシンと静まった夜更けに誰かの息遣いが傍で聞こえるという事実はなんだかほっとする。僕と主と夜警当番以外は、きっとみんな眠っているだろう。

「うん、まあ」そんなとこかな、と口をもごもごさせながら言い訳。
「子供か」と主はめんどくさそうにつっこむ。

「僕らの年齢っていくつになるんだろうね」「さあ」「いくつまでが子供でいくつからが大人なのかな、刀剣男士」「さあねえ。私が訊きたいわ」「なんで知らないの。審神者なんでしょ」「審神者だからって政府の取り決めはよくわからん」「そんなもん?」「そんなもんよ大人なんて」「主ってすぐ大人ぶるよね」「アラサーだもん大人ですよ」「あらさーって僕が言ったら怒るくせに」「はは、怒るねそりゃ。とっつかまえてブン殴る。こうだよ」

 こうだよって、どうだよ。
 と、僕が言うよりも早く、主の腕がにゅっとこっちに伸びてきた。腕か肩のあたりを掴もうとしたらしい主の頼りない両手は全然力が入っていなくて、ぽてぽてっと僕の着物の袖口を叩いてそのまま僕の膝元に着地した。よけんなよー、とふにゃふにゃした口調が飛んできたけど、全然避けてない。そっちが掴む気なかったんだろってぐらいやる気のない殴り方でびっくりする。寝ぼけてるのかな、と思うくらい。


「やっさだ」
「言えてないよね」
「うるへ」
「噛んでるし」
「もー、なんなのあんたは」


 もう黙れと言わんばかりに、再び主が腕だけ伸ばして僕の手を掴んだ。そのままぐんと引っ張られて、やっぱりまったく力は強くなかったけれど、僕はそれになすがままになって、横たわる主に掛け布団の上から覆いかぶさる形になった。

 抱きすくめられて、主の顔や身体の熱がすぐそばにあって。呼吸のたび上下する胸元や髪にかかるその吐息がどうしようもなく生命を感じさせた。にんげんであるということを、主の肉体が告げる。それを享受している僕のほうもまた今は鋼ではないのだとわかった。わかってしまう。こんなにもなまめかしく、僕は主に「生かされている」のだと感じた。ひとのからだをもらってしまった。心さえも。もう戻れない。

 「やすさだ」また主が呼んだ。舌足らずでうまく口が回ってない。眠いんだろうな、と思う。
 沖田くんが決して呼びかけることのなかった僕の名前を、いとも簡単に主は呼ぶ。


「寝るよ、明日も仕事だから」
「……うん」
「こっちおいで」


 主の手がぼすぼすと僕の背中を叩く。抱きついてんだからもうこれ以上近づけないよと思ったけど、どうやら布団に入れということらしかった。たぶん。
 「一応僕も男なんだけど」って言おうとしたけど、主にとってはそんなことどうでもいいんだろうなという気がしたから言うのはやめた。僕だって区分上は男だけど、だけど何だよって感じだし。我ながら。主のことをそんなふうに見たことなんてただの一度もなかったんだから当然だ。一応女性なんだから最低限の自衛とかはしといてほしいけど。心配にならないこともないし。


「せまっ」
「こら文句言うな」


 主の布団は当たり前だけど一人用なので、僕まで一緒に入ると当然窮屈だった。主が端のほうに少し詰めてくれたようだったけど、それでも狭いもんは狭い。身じろぎしても何をしても体のどこかしらが主の体に触れてしまって、布団と主とぬくもりを感じながら「清光にバレたら本当に斬られるな」と他人事みたいに思う。他にもいろいろ物騒なやつらはいるけど。

 「…案外暑いんだね」「うん」うっすらと瞳を開けて、主は喉の奥だけで頷いた。瞼が重そうだ。とろりとした口調で「そうだよ、人と布団に入るとたいがい暑いよ。暑いってか、あったかい?って感じ」と囁く。


「知らなかった」
「ふはは、私も久しぶりだ」


 なにが、と追求する気にはなれなかった。主は今僕を懐に入れている。その事実だけで満足できた。
 僕よりも細い首筋も小さな肩幅も体温も何もかもがくっきりと主を形どっていた。このひと然としている。これは主で、沖田くんじゃない。ここにいるのはさんという女の人で、そして、僕はこの主によって作られた。沖田くんの面影を抱いたままの僕は、僕の知らない誰かの面影を抱いたままの主に、ゆっくりとあたためられてほだされて愛されていくんだろう。時間をかけて僕はこのひとの懐にしっくり収まるように馴染んでいくのかもしれない。たとえば清光みたいに。清光と一緒に。今は、そう思えた。


「……あのさ」
「ん?」
「呼んでもいい?」


 名前。
 わりと意を決して言ったのに、ほんの十数センチ先で主が息だけで笑った。あ、言わなきゃよかったと反射的に思って、だけどもう引き返せない。恥ずかしくなって顔が熱くなる。そもそも寝てる女の人のところに押しかけた時点で恥じらいとかないだろって気もしたけど、いや、だから、同衾するとかそういうつもりだったんじゃなくって。

 「今更?いつもみんな呼んでんじゃん」いたずらっぽく主が言う。
 さっきまでほとんど瞑っていたはずの目はいつの間にかまっすぐ僕を見ていた。僕はそれにすらどきっとして見つめ返すことができない。ごまかすみたいに主の首元や鎖骨のあたりを凝視するはめになる。ああ、耳にほくろがあるなんて知らなかった。


「好きにしなよ」


 あ、これだ。この言い方。最大限に僕を自由にするみたいな言い方はとても僕に甘く、そして僕を突き放す。無意識だってわかってるのに、だからこそ僕は主から離れられなくなる。僕は沖田くんのものだったのに。僕には沖田くんだけがすべてだって思ってたのに。



「…さんつけろ、誰の真似それ」
「和泉守」
「あんにゃろ。あとで肩パンしてやる」
「僕が言ったって言わないでね」
「主人の寝床に夜這いにくるやつはそれ以上の重罪です」
「…それは、うん。ごめんって。もうしないから」
「いいけどね、時間考えてよ。眠いわ」


 呆れたみたいに、諦めたみたいにさんは笑いながら零す。いいのかよ、とつっこみたくなったけど、どうせ返ってくるのは「いいよ別に、好きにしたら」みたいな返事だろうことは想像できた。ずるい人。


さん」
「なに」
さんてさ」
「うん」
「こうして見るとちっちゃいね」
「…バカにしてんの?なに?」
「してないよ。もう、もういいから寝なよ。寝て。明日も仕事なんでしょ。こっち見ないで」
「はああ?なんなの。そっちが入ってきたんでしょ」
「部屋には入ったけど布団に入れたのはそっちだろ」
「あんたがわけわかんないこと言ったからでしょーが。追い出してもいいんだぞ」
「やだよもう、部屋に戻るのなんかめんどくさい」
「わっかんない子だなあんたは」


 おかしそうに主がぼやいて、次の瞬間にはその吐息は欠伸に変わっていた。僕もつられて欠伸しそうになる。窮屈だし暑いけど主の懐はどうしてか居心地が良い。布団のぬくもりがそうさせてるのかもしれないけど、出ていくのが惜しいと思えるくらいには、今はちょうどいい。

 僕にはまだわかんない。さんのことも僕のことも。わかんないから、しばらくわかんないふりしていたいから、もうちょっとそばにいさせて。
 恥ずかしいから言わなかったけど、でも、そう思えた夜だった。




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