窓の外からは雨の音が絶え間なく聞こえていて、カーテンの隙間から覗けば雨粒は窓にぶつかってはゆっくりと下降して視界を遮るかのようだった。アコースティックギターのつむぐ音色がお気に入りのCDをオーディオにかけて、いれたての紅茶をすすりながらぱらぱらと雑誌をめくる。あ、この靴かわいいなんて、たまにはこんな土曜日も悪くない。本当は外出する予定だったのだけど、それはまた今度にしようと言ってわざわざ雨の中を彼がやってきてくれたのだ。湿気でうねる前髪は些か憂鬱だけれどそんなマイナスな気分も彼が来てくれたことで幾分か緩和されているように思う。


「雨、今日は止みそうにないね」
「あ、ちょっと休憩?」
「うん」


長いこと文庫本に落とされていたその瞳が窓の方を眺めていることに気がついた。適当に本棚から選ばれた小説は、どうやら彼のお気に召したらしい。彼は読みかけのページに指を挟んだままで軽く伸びをしたりして、紅茶の入ったマグカップに口をつけた。そのカップは先週一緒に選んで買ったもので、繊細な装飾とおそろいのソーサーのかわいらしさが私の目に止まったものだった。音をたてないように器用にソーサーにマグを置いて、ぼんやりと彼が口をひらく。何とはなしに小説の表紙に這わされた指が長くてうらやましいなあと思ったことは彼には内緒である。


「このくらいの雨だとさ、」
「うん」
「雨音が心地いいね」
「…ちょっとわかる、かも」


彼は雨が好きだ。好きって言ったってそりゃ限度はあるけど、と付け足して言ったのはいつのことだっただろうか。しとしととアスファルトの色を重くしてゆく雨が穏やかに思えるのだと彼は言う。外へ出かけるのは確かに億劫になるけれど、こんな風になんでもない時間を過ごせる雨が私も嫌いではなかった。
彼は他の人間以上に自然とかそういうものに関心があるようで、こういう天気がいいよねとか、ここの風景がひどく好きだとか、そう言ったことをときどき教えてくれるのが私はとても好きだったのだ。私は彼ほど繊細な心を持ち合わせていないから、そんな風に物事を考えられる彼のことを単純に素敵だと思っていたし、どこかうらやましく思う気持ちもあった。

昔は嫌いだったんだけどね。
形のいい彼の唇がそう紡ぐ。なにが、とは言わないけれどおそらく雨のことなのだろう。「嫌いなものを好きになることって、あるの」私にはそんな経験がないので、おとなしくそう質問してみた。ちょっと苦笑しながら目を伏せた彼はまつ毛が長くてやはり綺麗な顔立ちだなあと場違いなことを思った。綺麗とかそういうことを言うと彼はあまり気分を良くしない、どちらかというと女性っぽいところがある顔立ちに些かコンプレックスがあるようだった。くっきりとした二重も陶器みたいな肌も私は大好きなのだけれど、やはり悔しいので彼には伏せておく。言わなくてもわかっていそうなのがまた彼らしいのだけど。


「あるよ。嫌いだったものが好きになるときって、結構あると思うな」
「たとえば?」
「うーん……子供のころ食べられなかったものが大人になって食べてみたら案外美味しいとか、あるだろ」
「ああ、それはたしかに」
「雨も嫌いだったし、夜もそうだった」


それは、子供から大人になるということなのだろうか。心に余裕が出来るとか、寛大になるとかそういうこと?どうがんばったって私と彼とは人生経験が違いすぎるからなんだかはっきりとは理解ができないけれど、彼が言わんとしていることの半分はわかったような気がした。彼がしてくれた食べ物のたとえ話もそうだし、自分の経験したことに置き換えるなら、苦手だったものを克服したときみたいな気持だろうか。少しだけ心が軽くなって優しくなれるような、そんな気持ち。解けなかった数式が解けるようになった時、喧嘩した友達の気持ちがわかった時、どうしようもなく寂しい夜に隣に誰かがいてくれるようになった時。せつない思いが溶けてなくなるみたいな瞬間を言うのかも、じっくりと時間をかけて泣きたい思いがほぐれてゆくようなことを言うのかもしれない。

彼がこれまでに過ごしてきた雨の日も眠れぬ夜も私には想像しかねるけれど、今ではそれが嫌ではないのだという。そっか、そう小さく相槌を打つしかできない私を彼がどう思ったかは知るところではない。けれど、これから先に出会うだろう雨の夜はきっと彼を苦しめたりはしないのだろう。朝になれば雨もやんでいて、雨上がりの水色の空気が澄んだ空に反射しているのだ。清々しいその風景を、いつか彼の隣で一緒に過ごすことができるだろうか。こうやって同じ時を共有して、今日みたいにゆっくりと音楽の合間に紅茶をすすったりして。

彼が差してきた傘は傘立ての中ですっかり乾いていて、明日の朝には必要がなくなっているかもしれない。うまくセットできなかった前髪も、明日はまっすぐに私の額を隠しているといいなと思う。


「明日雨があがったら、今日の埋め合わせしようか」
「うん、どこへ行きたい?」
「新しい時計がほしいって言ってなかったっけ?」
「あ、そうか。そうだったね」
「じゃあ適当に雑貨屋でも行こうか」
「帰りにスーパー寄って食材も買い足したいなあ」
「ふふ、いいよ。夕飯なにするの?」
「今から?えー…何がいい?え、ていうか明日も泊まる気なの?」
「明後日には帰るよ」
「もー…」


マグカップの中の紅茶はぬるくなっていて、小さく流していたCDアルバムももう最後の曲になっていた。お互いにページをめくる手はすっかり止まってしまったけれど、雨音だけは相変わらず絶え間なく小さなノイズを送り続けている。おそらくは、明日の朝までずっと。




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